見出し画像

生きるとか、死ぬとか

人は
生まれたとき
「おめでとう」と言われるのに
死ぬときは
なぜ「おめでとう」と言わないのか。


生老病死。
四苦八苦の四苦がこの4つ。

生まれることは、おめでたい。
老いることは、めでたくない。
病も嫌煙して
死は忌み嫌う。

なんでだろう?

「生」は「生まれること」ではなく「生きること」なのか?


このまえ考えてたことは、
どこかに流れていってしまったので、
今日は今日で、また考える。


わたしは、なぜか人の「死」に近い。
立ち会うことになったり、
そんな話を聞くことが多い。

いろんな人から聞くからかな?

みんな違う人なんだけど、
あつめてみたら、やっぱり死に触れるの経験が多い。

親友の彼氏。
友達の兄。
同期のお姉ちゃん。
曾祖父2人。
曾祖母2人。
甥っ子。
中絶。
自殺しちゃった後輩。
父方の祖父。
母方の祖父。
母方の祖父のお姉さん。
会社の相談役。
恩師。

自殺未遂をした人も知ってるし
生きたくても生きれなかった人もいた。


いろんな人の死に様を見て、触れて

「あなたはどう生きたいの?」

と聞かれてるのだと思う。


この前、亡くなった祖父がよく言ってた。

誰でも、みんな死ぬもんだ

それが遅いか、早いか、だけなのだ。
それだけは、
向こうで決めてきてるけど
忘れ去ってるだけなんだと思う。

なぜって?
覚えてたら、刹那的に生きてしまったり、
悲しくなったり、
無気力になるからだと思う。

わたしはわたしなりに、そう解釈してる。


大事な人の死に対して
さみしい、とか
かなしい、とかはあるけど
それは、きっと風化する。

何年か、何十年か先になるけど。
それでもきっと、優しく風化していくのだ。



後悔がないように接してきたから、
祖父の死も、
ある程度悲しんだら、受け入れた。

たくさん話したもの。
でも「もっと聞けばよかったなぁ」と思うかな。
わたしが、話して話して話して。
そんな関係だった。


生と死は、
ライトサイドとダークサイドなのか?

生が、ライト?
死は、ダーク?

とはいえ、

きれいなところだけじゃ生きていけないのよ。
食べれば、排泄がある。
優しさだって、時には毒になる。
厳しさだって、時には愛になる。

全員、等しく、ダークサイドがある。
闇がある。

それが普通だと思う。
それを他人に見えるように出すか、否かなのだろう。

宗教の修行は
ダークサイドを失くす生き方を目指すのだろうか?

宗教は詳しくないけど、
わたしは、
ダークサイドを受け入れる生き方が良いと思う。
ダークサイドがあるから光のほうを向ける。
清濁の判断ができる。
ダークに触れることも、時には大事。
ライトやクリアだけで、人間も世界も社会もできてない。

ダークサイドはあっていい。
飲み込まれなきゃいいと思うのだ。


自分のダークサイドを見つめて、
見つめて、見つめると、
その黒い霧の中には、
怒ってる自分や、悲しんでる自分が存在しているだけだから。


わたしね、
善人なんて居ないと思ってる。
でも、悪人も居ないと思ってるの。

いるのは、
善人になろうとしている人と
心の闇に飲まれる人だけじゃないかな?って。

それが
天秤の皿の上に乗ってるのよ。

善人になろうとする意思

心の闇に囚われる固定観念

このバランスというか、
この濃度が
その人をカタチつくってるのかもしれない。


リストカットも拒食症も過食症も経験済みで、卒業済みのわたしには、
「心の闇に囚われる感じ」がよくわかる。

逃げても逃げても追ってくるのだ。

全速力で逃げ切ろうと思ってた時期がある。
でも違うんだ。

実は、
逃げるよりももっと有効な手段がある。

それが

受け入れること。


まるでゲド戦記

ここから先は

2,104字
この記事のみ ¥ 450

この記事が参加している募集

沼落ちnote

サポートいただきありがとうございます。励みになりますし、記事が、何かお役に立てれば光栄です!