言いたかったことは言えないまま、書きたかったことは書けないまま。

2016.2〜2024.4


 言いたかったことは言えないまま。
 書きたかったことは書けないまま。

 好きでもないものを「好きです」と言ってみたり。
 つらくもない仕事を「もう毎日大変ですよ」と言ってみたり。
 適当な資料ひっぱって文字数稼いで、書き連ねて、ふと俯瞰して虚しくなって。

 「ああここに"伝えたいこと"なんか何1つないな」

 それでも"伝えたいこと"を太字にする作業をやめない。

・ ・ ・

 言いたかったことは言えないまま。
 書きたかったことは書けないまま。

 とりあえず、相手が微笑んでくれそうなポジティブな言葉を。
 とりあえず、わかってる感じを出すため。
 とりあえず、何かを共有しているフリ。
 とりあえず、とりあえず。
 「とりあえず」を飛び石のように渡ってゆくと、言えることばっかり。書けることばっかり。
 虚ろが灰みたいに降り積もってる。
 けど他人から見ればその灰に覆われている像がぼくなのである。

 昼過ぎ、東京の駅、ホーム。
 橋上駅舎で切り取られた横長のスリットから、曇り空のビル群を見あげた。
 灰色の絵だった。
 灰色の濃淡があって、そこに「真実」とか「嘘」とか「誠意」とか「不誠実」とか、あと、なんだっけ……そう。いろいろな灰色があるそうだ。アンミカかよ。

 背後でずっとスーツを着た男女の電話声がしていた。
 ぺちゃぺちゃ。
 言葉が浮く。
 暗い鉄骨の間を反響して、それは街へ飛び出す……この街を構成する無量の灰の中に言葉は吸い込まれていく。
 スーツの男女は疲れていた。

 亡き祖父の家で焚き火をしたときを思い出した。
 古い紙束や本をいっぱい、燃やした。
 1ページ、また1ページが炎に舐められ、一瞬ばっと燃え上がって半分くらいになり、風に飛ばされる。ちらちら燃え上がりながら。
 言葉だったものは、地面に落ち、壁にくっつき、もう読み取れない。
 でも「灰」は残る。
 水を撒いて片付ける時のあの、疲れ。
 喪失感。

 東京も街自体が灰でできてる。
 雨が降ったら1時間くらいで流れて消えちゃうような街。

・ ・ ・

 言いたかったことは言えないまま。
 書きたかったことは書けないまま。

 感情は溢れ過ぎると音はやむ。
 時が平面化する。
 画面から彩度がなくなって、ぼくは感情に使役されて、視野の狭い、速度の速い、本能が先鋭化した金属のモグラのようになってしまう。
 爪の先から言葉が言葉が次々出てくる。
 滑らかに出てくるのは怒り、不満、憎しみ、妬みの言葉ばかり。
 そういうのはたまらなく言いやすく、書きやすい。
 ぼくは地中をあらぬ方向へ。
 遠ざかってしまう元々の自分。
 それを振り返って、

――言葉で説明するのは難しいですね。伝わらないですね。

 とか言っちゃって。
 まるで人と人との断絶のせいみたいにして。

 本当は、人と人との違いなんて小さいんだ。
 断絶なんてほんと嘘。
 想像力さえ失わなければ、人間に違いなんてあんまりない。
 些細な違いに定義と境界線を引いてしまうのは余計な言葉の数々!
 本当はあまりにも小さすぎる溝なのだ、ぼくも、誰も、見逃してしまうような。
 その溝に気づかずつまづくのが怖くて、溝を恐れて、言葉を重ねれば重ねるほど人は自分自身から遠ざかってゆく。
 そのことに気付いて言葉を失う。

 たったひとつの言うべき言葉を、馬鹿みたいに生み出してしまった灰の中で見失っている。

 言葉を覚える前はどうやって生きていたんだっけ?

・ ・ ・

 言いたかったことは言えないまま。
 書きたかったことは書けないまま。

 7年前の書きかけの日記があった。
 拙い言葉。
 浅い考え。
 けど、いっとき確かに燃え上がって心を支配さえした感情の面影がそこにあった。
 けど心の中に残っているその残滓・イメージと、実際その言葉から伝わってくる感想とがまるで釣り合わない。

 本当に書きたかったことは言葉に残せなかった。

 まるで空き地を見て、元々何があったのかわからなくなってしまったときみたい。
 そこに何かがあった。
 漠然と建物のシルエットは思い出せる……けど目の前にドンと起立する「売地」の看板、そのビビッドな黄色と赤色が思い出の邪魔をする。

 喪失してしまった。
 その事実1個だけが胸に響いてくる。