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短編小説『ウミガメの背中に乗って』  前編(約4900字)



 高校2年の夏休みが終わって1カ月くらい経った頃、横浜駅の地下街で野々宮さんにばったり会った。

 その日は部活のあと母に頼まれたパンを買いにそごうへ行き、バスターミナルに向かうエスカレーターに乗ろうとしていたところだった。

斜め前を滑るようにして歩いてくる人—-
岸田劉生の『麗子像』みたいなおかっぱ頭、襞のたくさん付いた黒いロングスカート――注意深く前方を見つめる目に見覚えがあった。

――野々宮さん?――
 そう思い振り向くと、その人も立ちどまって私を見ていた。四角い顔の中の奥深い目で。
――やっぱり――
 野々宮さんは去年、県営プールのアルバイトで一度だけ一緒になった人だ。


「お久しぶりです」
「お久しぶりでした。お元気でしたか?」
「はい」
野々宮さんは一歩下がって私を見る。

「背が伸びましたか?」
「はい。少しだけ」
「あなたとは去年お会いして以来ですね」
「はい。野々宮さんはもう、プールへは行かないんですか?」
「行きません」

 あまりきっぱりと言われたので少し戸惑っていると、野々宮さんは微笑んだ。
「去年は何かに呼ばれるようにしてプールへ行きました。そしてその〈何か〉が何であるかわかったので、もう行くことをやめたのですよ。……依田さんはその後もずっといらしてた?」

「はい。去年も今年もラストまで行きました」
「そうですか」
野々宮さんは「ふーん」というように頷いたあと、腕の小さな時計を見る。
「では……。お元気で。ごきげんよう」
くるりと背を向けて歩きだした。

「あの……」
野々宮さんは立ちどまり、振り返った。
私は歩み寄り、定期入れの中から名刺を一枚抜きだした。

「野々宮さん、これ、私の名刺です。もしよければ……」

野々宮さんは何か珍しいものでも見るように、私の手の上をじっと見た。
「自分で作った名刺ですけど」
 野々宮さんの唇が少しだけ横に動く。
私の名刺には名前と携帯番号とアドレスが書いてあって、右端にはすみれの押し花が貼りつけてある。

野々宮さんが人差し指で押し花をそーっとなぞった。
「あまり触ると取れちゃうので……」
 野々宮さんは触るのをやめた。また腕の時計をチラッと見て、それから肩に掛けていた大きな鞄の中から紫色の名刺入れを取りだす。

「わたくしの名刺を差し上げましょう」
 とても小さな名刺だった。
「わたくしはこれから鑑定の仕事がありますから、お話をする時間がありません」
「かんていですか?」
「そうです。未来鑑定です」
「みらいかんてい……」
野々宮さんは私の名刺を紫色の名刺入れにとても注意深く入れ、それをバッグにしまうと「では」と言った。


私は後ろ姿を見送り、昇りのエスカレーターに乗った。

貰ったばかりの名刺を眺める。
紫色の薄い紙で、三角形を二つ重ね合わせたような図形が浮かし彫になっている。表は『野々宮彗蔣』という名前だけで、裏返すと、パソコンのアドレスと電話番号が小さな文字で書かれていた。

家に帰り、いつものように母と二人で食事をした。父はたいてい夕方からパチンコに出かけ、夕食はいつも母と二人だ。
「お母さん、『未来鑑定』って、何のことかなあ?」
「『未来鑑定』?……『運命鑑定』っていうのが占い師さんの看板に書いてあるのは見たことがあるけど」
――占い? そうか……そういえばそんな雰囲気だね――

パソコンに野々宮さんのアドレスを打ち込んでみた。
『野々宮彗蔣(ののみやすいしょう)の部屋』というホームページに、少し横を向いた野々宮さんの顔が載っていた。写真の下には『未来鑑定であなたに勇気と希望を』と書いてある。
――勇気と希望か――
私には縁のない言葉だ。
しばらく画面の中の野々宮さんを見つめた。

紫色の背景には名刺と同じ図形が浮かびあがっている。三角形を上下に組み合わせたような形だ。
〈ヘキサグラム:六芒星。対立原理の調和のシンボル〉
図形の説明を読み、川崎の住所を携帯にメモした。


 その週の土曜日、私の足は川崎へ向かっていた。
 乗換駅の横浜を通りすぎ、ひとつ先の川崎で降りる。
改札を出るとすぐ前はドーム型の待ち合わせ広場だ。その先をまっすぐ歩くと駅ビルの入口がある。その中に入り、ブティックや化粧品店の前を素通りしてエレベーターホールへ向かった。

下りのボタンを押して待っていると、やがてチーンという音と共に扉が開いた。
象だって乗れそうな、大きなエレベーターだった。四方の壁は灰色の布で覆われている。

誰もいないエレベーターに乗り、真ん中あたりに立った。扉がググググーと大きな音を立てて閉まる。
バッグを胸に抱え、そのまま立っていると、中の照明がふっと暗くなった。
胸がドクンと波打ち、額に汗が噴き出てくる。

――なに?――
階数表示のランプをじっと見た。
見つめているうち、あることに気づく。
弾かれたようにB2のボタンを押した。
ボタンを押し忘れていたのだ。
途端に中が明るくなり、ググーという音と共にエレベーターが動き始めた。

私はポケットからハンカチを取り出し、汗を拭いた。
ドアが開くと、キャベツを山積みにしたワゴン車が待っていた。白い帽子を被ったおじさんが私の顔を見る。
「おねえちゃん、これは業務用のエレベーター」
「はい。……すみません」私は頭を下げた。


「売り場はあっちだから」おじさんが指をさす。
「ありがとうございます」
 私は彼が指さした方へ向かって歩いた。

B2には食品を売る店が並んでいた。
コロッケ、鶏の唐揚げ、天ぷら……その先はパンの専門店、その隣はケーキ……。
この先に未来鑑定をする場所があるのだろうか?

 そろそろと歩いていくと、『占いコーナー』という看板が見えてきた。
人さし指が「こちら」と左を指している。
深呼吸をひとつして、曇りガラスの扉を押した。


        

中はちょっと暗くて、下に向かって5段くらいの階段があった。その階段から先には赤いカーペットが敷かれている。
見渡すと、電話ボックス二つ分くらいの小さな仕切りが右側に並んでいる。反対側には目隠し用の植木鉢が幾つか置かれていた。その奥は小さなコーヒーショップだ。

背筋が丸まらないように気をつけながら歩いた。

 突きあたりの壁に『野々宮彗蔣』と書いてあるのが見える。それは入口側から数えて5番目で、いちばん最後のブースだった。突きあたりのせいか、他よりも少し広いように見える。

『手相、タロットカード、九星気学』――野々宮さんのブースにはそう書かれた横長の看板が掛かっていた。外側の小さな椅子に、水色のスカートをはいた人が窮屈そうに座っている。

 奥に野々宮さんがいた。紫色の壁をバックにこちら側を向いて。紫色のブラウスに黒いレースのストールを羽織っている。野々宮さんの前に座った女の人は、両手をテーブルの上に載せ、首を振りながら熱心に何かを話していた。

野々宮さんはタロットカードの束を片手に持って目を瞑り、尖った耳を片方だけ黒い髪の間から出して、その人の話を聴いていた。
テーブルの上にはホームページで見たのと同じ、ヘキサグラムをかたどった紫色の布がかかっている。

 ブースの横に順番待ち用の小さな椅子が2つあったので、そのひとつに座った。
「ご予約のない方は、右の表のブランクの時間帯に順に鑑定いたします。用紙にお名前と携帯電話の番号をご記入の上、お待ちください」と書いてある。殆どの時間帯に「予約済」の赤いスタンプが押してあった。

2時から3時までが「休憩」になっている。2時までならあと30分くらいだ。私はそこで待つことにした。

2時10分過ぎに水色のスカートの人が野々宮さんに何度もお辞儀をしながら立ちあがった。私の顔を見て会釈をしたので、私も同じように頭を下げた。
〈休憩中〉の札がテーブルの上に立てられ、裏側から野々宮さんが出てきた。


「コーヒーを飲みましょうか?」
「え?」
野々宮さんは先に立って歩きだした。あなたがそこに座って待っていたことくらい、とっくにわかってるのよといった感じで。
ポトスの植木棚の向こうがコーヒーショップだった。
 野々宮さんはジャムトーストとコーヒーを注文し、私はミルクテイーを注文した。

「依田さん、今日は私に何かご用ですか?」
 野々宮さんが訊いた。
「いえ……。用っていうか……。このあいだ戴いた名刺がとても素敵だったので……」
「それはお褒めの言葉としてありがたく承りましょう」野々宮さんは微笑む。「でも、それだけではないのでしょう?」

 野々宮さんはトーストを小さくちぎってジャムをたっぷりと塗り、口の中にポイッと放り込むようにして食べた。
もぞもぞしている私を見ると、コーヒーカップをソーサーの上にそっと戻し、言った。

「依田さん、今は私の貴重な休憩時間です。出来たらゆっくりと一人で過ごしたい。でも、一度きりとはいえ、あのプールでご縁を戴いたあなたですから、今日は特別です。ご用件を承りましょう」

 改めて「ご用件を承りましょう」と言われ、戸惑った。
だいいち、何を求めて私はここへ来たのか、自分でも分からないのだから。
野々宮さんの名刺を見て、吸い寄せられるようにここまで来てしまった。まるで、あらかじめ決まっていたことみたいに。
何かを聞かなければ――

「野々宮さんはずっとこのお仕事をしてるんですか?」

 野々宮さんはまたトーストをポイっと口に放り込む。
「祖父から三代続いた占い師です。祖父、母、それから私。私は3歳のときから星を読んでいました」
「3歳のときから……?」
「そう。3歳からです。7歳で手相を見るようになり、9歳で九星気学、そして15歳にしてタロットカードと運命的に出会ったのです。……依田さん、時間がなくなりますよ」

 野々宮さんの小さな目がキラリと光り、私は途端に顔が赤くなるのを感じる。
「すみません」深呼吸をしてみた。聞きたいことは喉のあたりまで来ているのだけれど。

「手を見ましょう」野々宮さんが言った。
「どっちの手ですか?」
「両手を見ます」
私が弾かれたように両手をテーブルの上に置くと、
「片方ずつね」野々宮さんが小さく笑った。


「あなたは幼い頃、体が丈夫ではなかったようですね」
「はい」いきなり核心を突かれ、胸がどきんとする。「生まれた時、超未熟児で。小学生のころには喘息で、中学生になったら骨折したり捻挫したりで」

喉元に溜まっていたものがそろそろと流れはじめる。

「それで……私はずっと、体が弱いから運動も駄目だし、勉強も駄目で、いつも成績は真ん中より下で……」
「ふーん」
「ビリだったことだってあるんですよ」
「すごい」
「えっ……全然すごくないですよ。一度だけじゃなくて、何度もありましたよ、ビリが。……それから、何をやっても不器用だし、それから、何かを決めなきゃいけないときにはいつも、人の倍くらい時間がかかるし。祖母は私の顔を見ると、ため息ばっかりつくんですよ。なんでこんなに駄目なんだろうって」


いつの間にか、私は泣いていた。手の甲に涙が落ちている。
「たしかに」
野々宮さんは深く頷き、そして続けた。


それは辛かったですね。しかし、依田さん。あなたが今日まで無事に成長できたのは、 
無理をしなかったからではないですか?
 体が弱いおかげです。
それと、勉強が苦手でも、
そんなことはぜーんぜん大したことではありません。
 ビリなら、追い抜く人が大勢いて素晴らしいじゃないですか? 
今日の第一位は明日のビリッかすだって、ボブデイランさんも言ってますよ。
順位なんて、物差しが変わればころころ変わります。
それと、何事にも優柔不断だということは、慎重で、物事を軽々とは決めない、という、すっばらしい美点。言ってみればすべてがあなたの長所なのですよ。

“すっばらしい”に思わず笑ってしまう。

「笑いましたね」野々宮さんは言い、腕の時計に目をやる。
「お父さんはお元気ですか?」
「え? 父……ですか?」
「そう、お父さん」

「父がなにか?」
「いえ。お元気であれば結構です。ただそれだけのことです」
野々宮さんは伝票を持って立ちあがり、
「今日はこれで」と言った。
 
 
           

                                              ☕

後編へつづく