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短編小説『ウミガメの背中に乗って』 後編 (約3700字)


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 家に帰ると、玄関の前にイサムが停まっていた。
イサムというのは父が使っている軽のライトバンの名前だ。父が勤めている弁当屋の車なのだけれど、会社から通勤に使うことを許可されているのをいいことに、父はいつからかまるでマイカーのようにイサムを乗り回していた。

イサムは傷だらけで、前にも後ろにも、両側にあるスライド式のドアにも、くまなく擦り傷や凹みがあった。後ろのドアの下の方に、誰が貼ったのか知らないけれど、『勇』という小さなステッカーが貼ってある。

玄関に父の靴が脱ぎ捨ててある。底がすり減り、くたびれたスニーカーだ。
ガラス越しに姿が見える。
「ただいま」
引き戸を開けて顔だけ出した。
「おう、早いな」
「うん。お父さん、仕事もう終わり?」
「ん?」父は耳に手をあてて聞き返す。
「もう仕事、終わったの?」私は少し大きな声で言った。
「ああ、もう終わりだ」
「お母さんは買物?」
「ん?」父がまた訊き返す。
「お父さん、だいぶ耳が悪いんじゃないの?」大きな声で言った。
「そうだな……だいぶ聞こえなくなったかな」
「だいぶ聞こえないって……いつからそんなに聞こえないの? お父さん、まだ50過ぎだよね?」

「ああ。もう半年くらい前から聞こえづらくなったんじゃないか?」父は他人ごとみたいに言う。
「パチンコ屋なんかに入り浸ってるから耳が悪くなるんだよ」
「なんだ、お前、今日はお父さんに説教か?」
 父は私の顔を見あげた。
「お父さん、なんだか顔色が悪いよ」
「え? なんだって?」
 父はまた耳に手をあてる。私は泣きたくなった。父の髪はいつの間にか半分以上白くて、口や目の周りは皺だらけだ。それに顔色が悪すぎる。胸騒ぎがした。

 父が立ちあがった。
「出かけるの?」
「ああ」父は胸のポケットから煙草を一本抜きだして、指の間に挟んだ。
 私は台所の椅子に座り、父が靴を履いて玄関を出ていく音を聞いた。きっと玄関を出た途端に煙草に火を点けるのだろう。父は昔からヘビースモーカーなのだけれど、私が小学生の頃に喘息と診断されると、家の中では煙草を我慢するようになった。

 イサムのドアがパタンと閉まり、ガガガガ、とエンジンをかける音が聞こえた。
――行くんだな――と思っていたら、父が玄関で「摩子」と私を呼んだ。
「なに?」
私は台所の戸を開けた。
「弁当の余りがあったから貰ってきた。冷蔵庫の中に入ってるからな」
「うん。わかった」
 父は出ていった。

            

              *


 次の月曜日、蒲田駅の近くを歩いていた私は、エンジンをかけっぱなしにして停まっているイサムを見た。
 その日は授業が11時頃に終わり、私は母に頼まれた買物のために、蒲田の駅で途中下車をしてユザワヤに向かって歩いていた(ユザワヤというのは洋裁の生地や材料の専門店だ)。

すると、大きなビルの前にブルルン、ブルルンと不安定なエンジン音を響かせて、イサムが停まっていたのだ。運転席には誰もいなくて、横のスライド・ドアが開けっぱなしだった。弁当箱のケースやインスタント味噌汁の段ボールが丸見えだ。

――誰が使ってるんだろうか――
 そのときは父が使っているなんて思わなかった。何故なら、こんな風に仕事中のイサムを見るのは初めてだったからで、いつも家の前に停まっている空っぽのイサムとは別の車みたいに思えたから。

 イサムを使っていたのは父だった。
 私がイサムの傍で立っていると、空箱を抱えた父が駈け足でやってきて、私に気づいたのかどうかわからないけれど、ともかく運転席の伝票を見て、荷台の上で脇目もふらずに弁当を箱に入れ始めた。赤いケースに入ったおかずと、白いケースのご飯を数え、割り箸を入れ、パックの味噌汁を入れた。最後にもう一度弁当の数を数え、首に掛けたタオルで汗を拭い、両手で弁当のケースを持った。

それはたぶん20人分くらいだっただろうと思う。抱えるのがやっとくらいの嵩があった。半袖のTシャツから出た父の腕に、血管が浮き出ていた。
 父は弁当を両腕に抱えると、駈け足で目の前の会社に向かっていった。玄関のドアを手前に開くとき、父は弁当を一旦下におろしてドアを開け、体でドアを支えてからもう一度弁当を持って、すごくやり辛そうにしながら中に入れた。

 3分か4分くらい経ち、父がさっきのドアから出てきた。タオルで汗を拭きながら弁当のケースをイサムの中に入れる。

「なんだ、今日はどうしたんだ?」
 私を見ずに言う。
「ユザワヤでボタンと糸を買う」
 父は「そうか」と言って時計を見た。それから運転席のサンバイザーに挟んだ伝票を手に取り、人差し指で「よし、よし」と確認しながら荷台の上に僅かに残った弁当箱の数を数え、また「よし」と言った。

「お前、昼飯は?」
「家に帰ってから食べる」
「そうか。じゃあ、今日はお父さんと弁当を食うか」
「え?」
「ちょうど配達が終わったからな。今日はちょうど二つ余ってる」
 私がどうしようかと迷っていると、父がイサムの助手席を片付けて「乗れよ」と言った。

「ユザワヤで買物って、お母さんの材料か?」父がイサムを発車させながら聞いた。
「うん」
 母は近所の〈洋服病院〉の下請けみたいな仕事をしていて、ミシン糸やボタンが切れると、私がいつも学校の帰りに買って帰るのだった。
 父はイサムに私を乗せ、すぐ近くの川まで走った。大きな樹の下までくると、「ここで食べよう」と言う。

エンジンを切ると、イサムは一度ブルルルッと震えて、それからストンと停まった。私は二つの弁当箱を持ってイサムから降りた。
父がどこかからお茶を買ってきて、私たちは川に向かう斜面に腰をおろした。

「いつもここで食べるの?」と私は訊いた(父が聞き返さなくていいように、少し大きな声で)。
「ああ。この地域を配ってるときはいつもここだ」父が汗を拭きながら言う。「今日はイカフライだったな」
今日の弁当の中身は、イカフライとハンバーグと揚げシュウマイだった。黄色い沢庵も二切れ入っている。

「けっこう高カロリーだよね」
父は時々、その日余った弁当を店から貰ってくることがあって、私はそれを食べたことがある。中身はだいたい揚げ物ばかりだ。

「そうだな。カロリーはけっこう高いんじゃないか?」
「お昼、毎日このお弁当?」
「そうさ。この仕事は昼飯付きっていう条件だからな」
「毎日……美味しいけど味付けが濃いよね。お父さんの体にはあんまり良くないんじゃないかなあ」

「うん、確かに味付けは濃いな。お客さんが濃い味を好むんだろう」
私は四角い箱に入ったご飯を食べながら、ふと、最近気になっていた父の朝食のことを尋ねた。父はいつも朝の4時頃から弁当屋に行ってしまうので、私が起きたときにはもう居ない。

「お父さん、朝ご飯はいつも一人で食べてるんだよね?」
「ああ、店で弁当を食うのさ。7時頃から盛り付けが始まるからな。その前に食う」
「え? 朝も弁当屋で食べてるの?」
「朝はいつだって弁当屋だ。それに、夕飯だって貰ってくることがあるからな、もう殆んど3食が弁当だな」
「え? じゃあお父さん、うちのご飯全然食べてないの?」私は目を丸くして父の顔を見た。

「なんだ摩子、そんなにびっくりすることじゃないだろう。お父さんはもうかれこれ3年は弁当専門なんだぞ」

 ショックだった。父が毎日お弁当ばかり食べていたこともそうだけれど、そのことを自分が今日まで全然知らなかったなんて――。
「お母さんは……お父さんが毎日朝ご飯を弁当屋で食べてること、お母さんは知ってるのかな」
 私がそう言うと、父はまるで聞こえなかったみたいに、「食い終わったらユザワヤまで送ってくよ」と言った。

私はまだ残っているお弁当を食べた。おかずもご飯も、量が多すぎたけれど、今日はとても残す気持ちになれない。

「ここの川もだいぶ綺麗になってきたなあ」
前を向いたままで父が言う。
父は大島の生まれで、高校を卒業するまでずっと、大島の青い海を見ながら暮らしてきたのだった。

「前にウミガメを見たよね。大島で」
父が微笑む。「ああ。岡田港の岸壁でな」
「ウミガメが、沖のほうからゆったり、ゆったり……こっちへ向かって泳いできたよね」
「そうだったか?」
「うん。夢を見てるみたいだった」

 私は、目の前に大島の海を思い浮かべる。
懐かしさと、何か、温かいものが混じり合って、胸の中でぐるぐる回っている。

木の下に停まっているイサムを指さした。
「ボロボロだね」
父は「ああ」と頷く。「まだ走るさ」

私には父に言いたいことがあったけれど、
それは口に出さず、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

「あのさ」
「ン?」
「ウミガメのことだけど」
「ああ。なんだ?」
「ウミガメって、前を向いて泳ぐんだよね」
「そりゃ、そうだ。前向きにしか泳げないだろうしな」
父は笑いながら私を見る。

「それって、けっこう、いいよね」
「ン?」
「すっばらしいことだよ」
父は、訳が分からないという風に首をかしげ、「そろそろ帰るか」と立ち上がった。


「気をつけてな」ユザワヤの前で父が言う。
「うん」私は助手席のドアをぱたんと閉めた。


白い煙を吐いてイサムが走りだす。

バックミラーに父の顔が写っている。


                          完