「君はどう生きるか」について感想 ネタバレ注意

見終わった直後は実に難解で理解できず、終わってすぐのテストの答案を探すが如く
ダッシュでサイゼリアに駆け込んで、タラコとエビのドリアを食べながら(アレほんとに美味しい無限に食える)優雅に考察サイトを眺めた訳ですが
それでも「わからんなぁ」と思いつつ2週間ほど経過し、その間色々見聞きし(主にrevinさんのTwo Shotでの対談内容が発端)それなりに寝かされ
浅漬けぐらい浸かった考えが浮かんで来たので、勢いのまま残そうと思います

以下の内容は映画を見た方向けであり、ネタバレになるであろうことを改めて念押ししておきます

「この映画が伝えたいであろう事」は私の考えでは以下の2つです

・宮崎駿監督の商業で映画を作るの引退するみたいな方針の表明
・現実と創作世界の比喩と折り合いの付け方

まず1つめ
・宮崎駿監督の商業で映画を作るの引退するみたいな方針の表明

以下のリンクがサイゼリア内で読み込んだ記事で

『君たちはどう生きるか』がわかりやすくなる「8つ」の考察|宮﨑駿が“アニメ”または“創作物”に込めたメッセージとは
https://cinema.ne.jp/article/detail/51789?page=1

ガッツリ影響を受けた考えではありますが
・作中の大叔父さん = 宮崎駿監督自身であると考えており
作中における大叔父の経歴や役割は、天空から来た異物にのめり込み異世界へ行き、何らかの方法で異世界を管理している
その管理方法はざっくり言うと、「石?(天空から落ちてきた異世界を司るコア?)の指示?によって、定期的に石を積み上げていく」というもので
最終的に主人公である眞人に管理者のポジションを譲ろうとするわけですが
それに関わる以下はそれぞれのメタファーであると考えていて

石、異物 、異世界 = 創作されたもの、アニメという概念そのもの? 
インコ大王= 仕事の概念?依頼人?新作を急かして求める人たち? 
積み上げている石 = 監督した作品

その管理者のポジションを譲るという行為がそのまま、”商業で映画を作ることを誰かに引き継ぐ”という意味になるのではという考えです
最終的に、異世界で増長したインコ達の代表であるインコ大王が急かして勝手に積み上げた結果、異世界が崩れ去ってしまうというのは
依頼人やら世間の期待によって急かされて作ってしまうとアニメとしての異世界が成り立たなくなる的な皮肉めいた隠喩だろうと
「考えていて」とか言いつつほぼ全て上記の考察記事からもってきたものですが…

これまでに「引退する」と言いつつ監督業を続けてきていた宮崎さんですが、今度という今度はいよいよ筆を置くのか
今後は仕事としてではなくアニメ映画を作っていくということなのか詳しくはわかりませんが、ともかく、そういった類の意見表明であるのかもとふと思ったわけです
今後アニメ業界を牽引していくアニメーターへの激励であるとも取れるかもしれません

管理の仕事内容の指示の中に、13個の石を積み上げるだのなんだのが出てきますが、この13という数字は”これまで監督してきた作品の数”なのだそう
実際、作中にはこれまでの作品を思わせるような要素を意図的に散りばめていると思うんです
主人公の父親の声優が特別出演の木村拓哉(ハウル)
異世界内の母親の火を操る能力(ハウル)とその格好(アリエッティ)
海(ポニョとか色々)
名前忘れたコダマみたいなかわいいアイツ(もののけ姫)
眞人の外見や人格がどことなくアシタカっぽいし実際弓とか撃ってる
擬人化されたインコが千と千尋っぽい
外壁を登るシーンが湯婆婆の部屋に侵入する時と似てる気がする
異世界への案内人(トトロ)であり動物に変身できる相棒、つまりアオサギ = 白(ビジュアルはともかく
時代設定が戦時中(火垂るの墓)
主人公をサポートする強い女性(もののけ姫、千と千尋他)
探せばもっとあるとは思いますが、パッと思い出すだけでもこれだけありました
この要素を探すためだけにもう一度見たいなって気持ちが少しある

次に2つめ
・現実と創作世界の比喩と折り合いの付け方

ストーリーの流れを大まかに表現すると
現実で辛いことが起きる → 辛いことが積み重ねっていく → 現実で失った母と再会できる異世界へ導かれる → 継母が異世界へ行ってしまい、訪れる理由ができる →あらゆる困難や出会いがありながら継母と対面し、抱えていた課題と正面から向き合う → 母と別れを告げ、継母と共に現実へ戻る
となるかと思います

その流れの中で、抱えた現実の課題とその苦しみ、作中の人物でもとりわけ主人公の眞人と継母の苦悩が描写されますが、向き合う過程で二人とも一度異世界を訪れています
これは、創作世界への逃避によって現実の苦しみを遠ざけようとしていることの表現ではないかと思いました
創作の世界には上記の二人を物理的にも精神的も繋ぐ存在、”亡くなった母親(姉)”が出てきます
会うためなのか、何者かに導かれた(主にアオサギ?)からなのかはわかりませんが
訪れた目的に”現実で失った大事な拠り所を求めていたから”というのがあるだろうと
向き合うとは言っても主人公の眞人は先程も書いた通り、もののけ姫のアシタカを思わせるほど目的意識が強く、力強く困難を乗り越え爆速で継母と向き合っているわけではありますが…

終盤、設定的に現実に戻った際に異世界での記憶は消えてしまうようですが、最後こっそり石を持って帰ってきた眞人は例外的に記憶を保持しています
しかし、アオサギ曰くその石に大した力はなくそのうち薄れて消えていくだろう、でも友達として力になれる時があるかもしれない(うろ覚え、自信ない、言ってないかも)と伝え飛び去っていきます
この描写は私の中で、「創作世界に触れた経験と記憶は、現実世界において大した力を持つことはないだろう、でも現実と折り合いつけるためになんらかの小さな助けにはなるかもしれないし、そうであってほしい」という監督の願いが込められていると思うのです

私も苦しい時期に創作世界への逃避によって心を守ろうとした経験があります
生きてると苦しいことばっかりでついつい何かに縋ったり逃げたりしてしまうものですが
その逃げた先に浸らせ続けることがないようケツを叩きつつも、暖かく背中を押してくれる、作中のアオサギのような正に「友達」として存在しようとしてくれている映画だなと感じました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?