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SNS中毒者の私がInstagramをやめて気づいたこと。

noteにて、みなさんこんにちは。
まだ大学生の中村です。

今日は、僕が1000人のフォロワーを超えるインスタのアカウントを思い切って消して、数週間経ってから感じたことをここに記させていただきたいと思います。

「そんなこと勝手に自分で思って、留めておけばいい」といわれれば、御最もです。
しかし、自分の思考を言語化することの重要性は計り知れないと気づかされるこの頃ですので、たとえ読まれずとも記録しておこう思います。笑

さて、本題に入りましょう。

私がSNSをやりはじめたのは中学生の頃でした。

今や「出会い系サイト」と化しているらしい、mixiが学生の間で大いに流行っていました。当時は「つぶやき」から飛んで、自身のプロフィールを見てくれた人からの「足跡機能」を楽しみに毎日過ごしていた記憶があります。

今思えば、中学時代からがっつりとSNSに浸っていた我々の世代にとって、今やそれは切っても切り離せないツールとなっているのかもしれません。

他の多くのSNSをはじめたのも中学生からでした。メールよりも簡潔に、伝えたいことだけを伝えられるLINE。投稿したつぶやきが「リツイート」で、あっという間に知らない人々にまで届くTwitter。会ったこともない外国人とメッセージを送り合えるFacebook
それらは使い始めた当初、便利さと楽しさがあまりに、一日中「何を投稿しようか」と考えていた記憶があります。つまり、中学時代から既に私はSNSの中毒者になっていたのだと思います。

Instagramが流行り始めたのは、高校一年生の頃。私も周りに合わせて、例に漏れることなく、即様アカウントを作りました。しかし、友人の中には「SNSはできる限りやらない」と拒否反応を持つ人もいました。当時は「面白くないやつだな〜。」と思っていたものですが、今思えば、彼ら / 彼女らは何かしらのことを感じていたのではないかなという気すらします。

かつてある人から聞いた言葉にこんなものがありました。

SNSを最初からやらない人は、先が読める人。そして、途中でやめた人もそれに準ずる。

果たしてこれは事実なのか。それは私にはわかりません。
しかし、SNSが及ぼす人々の生活への悪影響は計り知れないものだと思います。
ショートショートストーリー生みの親、星新一も『ナンバークラブ』という物語の中で、SNSができる前から、その危険性を予言していたと言われています。(https://www.youtube.com/watch?v=vkvwXN70c28

2017年に、ユーキャン流行語大賞に輝いた「インスタ映え」。
たった「タピオカの一枚の写真のため」に大行列で2時間以上も待つ学生たち。皇室の一般参賀にて、隙間もない大群の中、写真撮影のため両手でスマホを構える大量の人々。世界遺産に来てまで、生の現場よりも液晶画面を睨んでは、写真の写り具合や色合いを決める人たち。

言葉にすると異様とすら感じますが、我々は日常でこれらの光景を簡単に目にすることができます。

そして、私自身もその一員でした。世界一周の旅をして様々な絶景を目にしましたが、そこでも恥ずかしながら「インスタ映え」と「いいね数」のことが常に頭にありました。
つまりそれは、行動の一つ一つが自分のためではなく、誰でもない他人に支配されていたとも言えるのかもしれません。

そんな自分に嫌気がさし、ついに最近、私は1000人のフォロワーを超えるInstagramのアカウントを削除しました。高校時代から何時間、何日もかけて作り上げたアカウントは、ほんの数秒の手続きで、瞬く間に消えました。

やめてから気づいたこと。
それは「SNSによる承認欲求は自分を見失わせる。」ということでした。
芸能人ごっこをして、他人よりも自分が優れようと頑張ってアピールする自分が、本当に馬鹿だったと心から感じることとなりました。

「嫌われる勇気」で一躍日本で有名になったアドラー心理学では、「承認欲求」を真っ向から否定しています。アドラー博士はこのように言ったと言い伝えられています。

「承認欲求は他人の期待に応えることであり、他人の期待に応え続けることは自己否定に繋がり、不自由な人生を招く。」

無限に承認欲求を起こさせるSNSが、いかに心理面において危険であるかは、この言葉からも読み取れます。

そして、そのSNSによる承認欲求の根源は「ドーパミン」にあると言われています。
スタンフォード大学の研究で、面白いものがあります。
「SNSの通知が来た時に、人が感じるドーパミンは400%で、この数値はコカインの使用時と同等レベルである」というものです。(https://www.youtube.com/watch?v=JZQD4Tm_mh0

コカインを使用したことはないので、その違いはわかりませんが、SNSに依存状態の自分を振り返るとこの言葉の意味がわかる気がします。

朝起きてすぐSNS、電車でSNS、トイレでSNS、授業中にSNS、食事中もSNS、自転車に乗りながらSNS、テレビを見ながらSNS、勉強しながらSNS、寝る直前までSNS…
私は完全にSNSという悪魔に取り憑かれていました。

平均すれば、毎日最低5時間以上はSNSに時間を費やしていたと思います。
「流石にそれはやばい」と思われるかもしれませんが、おそらく、他にもこういう方は大勢いるのではないかと思います。

私がSNSの中でもInstagramをやめた理由は、以下のようなものでした。
・「凄いと思われたい自分」に対する嫌気(承認欲求
・友人への羨み(他者との比較
・かわいそうな自分をアピール(自己存在主張
・即席のストーリー投稿(無思考
・拡散力の無さ(枠内自己満足

Twitterのような「バズ」がない拡散力のなさ、Facebookのような「名刺」としての活用や「コミュニティ形成能力」に欠ける点が気に食いませんでした。

株式会社gumi 代表取締役の国光宏尚氏は
『承認欲求』をベースにしたSNSは続かない」と主張しています。(https://note.mu/hkunimitsu/n/n6823b9d4b8a6
近年は、中高生の間でTikTokが流行っているらしいですが、あれも投げ銭システムでも導入しない限り、長く続くようには思えません。

さて、今回私はこうしてnoteに散々InstagramをはじめとするSNSをディスり倒してきましたが、使い方次第ではそれらは大いに役に立つツールであるとも考えています。
近年ではクラウドファンディングが流行っていますが、パトロンを募るためにSNSは必須です。また、新たなコミュニティ作りにもやはり最適なツールであるとも感じています。

「使われるか、使うか。」
とはまさにSNSのために作られた言葉であるように感じます。

Instagramのアカウントは削除しましたが、私は作ろうかと検討中です。
しかし、従来のような使い方とは変えていこうと考えています。

「ここまで書いといて何言ってんの!?」と思われても仕方ありません。笑

でもいつでも削除可能な心理状態にあるため、もはや「使われる」ことはないと確信しているからこその再開です。
また、目的のために利用したいと思っての判断です。

SNSは、気づかないうちにどんどん時間を食っていきます。
もし、今後も続けるのであれば、思考停止して「便乗するだけ」「見るだけ」に使用することは避け、人生にとって有益となるように使っていけたらいいなと思います。

そして、SNSをはじめとして、これからも常に「機械に使われないため」に試行錯誤しながら生活していきたいと思う所存です。

冒頭で私は「自分の思考を言語化することの重要性は計り知れない」というふうに記しました。
ここに記したことは持論でありながら、断言しているわけではありません。
数日経てば考えは変わっていくかもしれません。

しかし、こうして自分の考えたことを文字に起こして、発信することは、頭の整理に繋がるとともに、「インターネットの良い使い方」であるとも考えています。
ですので、時間が許す限り、今後も気楽に考えたことを文章化してみたいなと仄かに思っています。

長らく、長文を書くことがなかったため、非常に読み難い文章だったと思います。最後まで読んでくださった方々、ご拝読ありがとうございました。

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