年末の足音に耳を傾けてみた

眠れないので書いている。書きたいことがあるわけではない。何も悪くない。気になるとすれば休みたいというストレスからスマホを見過ぎてしまうこと。でも忙しい雰囲気に充実感を感じている自分もいる。焦り過ぎている感じがする。今は安定や変わらないことを望んでいる自分がいる。時間の捉え方がマクロからミクロに変わったからだろう。それは子供時間とも言えるかもしれない。確かに頭がパンクして身体も忙しなく動き、タスクが間に合わないと眉間に皺が寄ることも多いのだが、自分の手で時間を紡いでいる様にも感じられる。仕事をしている時は何故そう思えなかったのか。おそらく嘘の仕組みを回す片棒を担がされているような感覚がしたり、コミュニケーションが負担だったからだろう。愛したい人しか愛したくないという酷いエゴがある。特に今は世界が途轍もなく狭いし、私はその狭い世界にいられてとても幸せだ。何というか、視野を広げて国や人類や地球や宇宙視点で物事を考えるのが聖人のように語られるが、狭い世界でほんの些細な変化や出来事に感動しながら生きる方が、逆に世界の美しさを感じられたりして私は嬉しいかもしれない。何より子供と一緒にいられるこの濃いかけがえのない時間が好きだ。子供が小学校に上がるまで、その頃私は母が亡くなった時の年齢になっている。もしかすると私の身にも何か起こるのかもしれない。高校二年の時に母が亡くなってから、その時の母の年齢を人生の節目として意識している所があって、やりたい事はそれまでに終わらせようと内心決心していた。だからその先の人生がもし許されるならどのように生きようかなという思いもある。とにかく巻き込まれるだけ巻き込まれてみよう。人の為に生きるのでも世界を変えようとするのでもない。聞いた話によると私たちは魂磨きの為に生まれてきたらしい。他者の為に尽くし、学問や芸術を探求し、神霊的な存在と繋がる力を養う。そういえば、人の為に生きるのと、人に尽くして生きるのは違うのではないか。自分の為に生き、人に尽くして生きることが全うであるような気がする。人の為というのは自分の人生を生きる責任を人に擦りつけているような感じがする。もし上手くいかなかったらあなたの為に生きていたからだと言い訳するように。つまり自分の為に生きることは、自分の人生の責任は自分で負うこと、後悔のない納得し満足のいく人生を送ることであり、主張を押し通したり、利益を独占することとは違う。人に尽くすことは自分の人生を充実させるので自分の為になる。情けは人の為ならず。話が逸れたが、要はこの時代に生きながらも、進化論的に先発より後発の方が優位であるとか、お金や能力や仲間を持てるものが優位であるという目的達成型の価値観に惑わされず、例えこの世界で何も頼れるものがなくなって孤独になったとしても、目に見えない神霊的存在を信じ、心の拠り所にして、自分に合った道を見つけだすこと。私の場合だと、前述の価値観に長い間翻弄され、何か突出した能力を発揮して仲間に囲まれて生きなければという謎の理想を諦めきれず、最近ようやくその理想像に合う人物のサポートをする役目が自分に合っていることに気づき始めた。また、すぐに自分の力だけで、もしくは誰かの助けを借りれば、支えがあればやり切れると過信してしまうので、自分や家族や友人は一時的な拠り所であって、神仏的存在を心の拠り所にすることの大切さにも気がついた。それが正解かは分からないが、今の心の充実度がそれを表している。


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