うつわ(再掲)

 地面に当たっては弾ける雨を眺めていたら正午を告げるサイレンが鳴った。二枚目の器を洗い終えた時点で早々に切り上げることにした私は、店先に立て掛けてある青いトタンに閉店の看板を掛ける。雨に濡れて錆びきった釘で指先には赤黒い粒子が散らばった。湿った煙草のいつもと違う味に、一瞬脳がぐらっと揺れた。

「器であれば姿形はといません。器洗いなら当店で」

 これといった屋号が思い付かず宣伝用に作ったのぼり旗を軒先に設置し、これを店名としている。そのため巷では『器』とだけ呼称されていた。『器洗い屋』と呼ばれないのは、器を洗うことが目的ではないからだろう。
 煙草の火をボウフラの涌く桶の中へ投げ捨てて、のぼり旗の水を切り、三和土へ運び、上がり框へ腰を掛けた。

 順調な仕事だ。一枚目は二十年前に買ったという、どこにでもある陶器製の小鉢で、初老の男が風呂敷に包んだ状態で恭しく託してきた。受け取った器の裏をを少しだけ削り、石鹸で丁寧に洗い、布巾で水気を拭き取り、壁に取り付けられた棚に並べる。削り取った陶器の一部を竹筒にしまい、老人が再び訪れるのを待つ。年齢を考えると彼の顔を再び見ることはないだろう。この繰り返しだ。削り取った器の一部はもうすぐ私の納戸を埋め尽くす。

  綺麗に洗われた器を受け取りにくる客は皆、旅に出る準備をしている。昨日、大きめのプラスチックで出来た器を取りに来た少女は、手提げ袋一杯のおにぎりと、空っぽの背嚢を背負っていた。何処に行くのか訪ねると「ひがしの夏が、もうすぐ終わるとききました」と。器を預けに来たのは彼女の母親だろうか。客の顔も、名前も、私は殆ど覚えていない。少女が棚の片隅に鎮座していたピンク色の器を指さす。削った面を彼女に見せ、それから渡すと、少女の顔が器で隠れてしまう。両手で抱えるのは難しいと思ったのか、くるっと器を反転させ、頭に被る。天辺の削られた断面が太陽を反射し、軒先の旗はキラキラとしていた。

 二人目の客はみすぼらしい青年で、薄汚れて所々ちぎれてしまった紙で出来た器を持ってきた。同じように器の裏を削ろうとしたが、薄く、すり減ってしまった紙を削ると、この先使い物になりそうにない。ちぎれた先の繊維を少しだけ取り、筒にしまうことにした。水に濡らすと破けてしまいそうなので布巾で綺麗に拭くだけに留める。彼が器を受け取りにくるのか、私にはわからない。

 私は独りで器を洗う。独りというのは「完結」している。始まりは無く、終わりは曖昧で、それがひとつの円となって循環する。納戸に納められた器の削り屑は、この先も増え続けるだけだろう。器を預けたまま消えてしまった人には器が必要なかったのか。それについて考えても私には理解出来ないだろうし、時間が解決になるかと言われれば、否、時間は私を疲弊させるだけだ。いつか削り屑で大きな器を拵えよう。そう思っていたけれど、その日が訪れることも、もう無いだろう。受け取り、削り、渡しつづける。それが私に出来る最も賢明な自由の選択だと、そう気付いてから私は少し単純になった。

 明日はペンキ屋がやってくる。そろそろまっとうな看板のひとつぐらいは必要だと思った。それから看板を縁取るきらびやかな電飾「旦那、ここで何の商いをやってんのか詳しくは知りやせんが、屋号はどうするんです」と聞かれ、私は何を思ったのか「分けいっても、分けいっても、青い山」と、種田山頭火の自由律俳句を読んでいた。
 まぁ、そういうことだろう。私が何をしていようが余人はここを訪れる。そして私は、洗って、削る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?