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『ベッテルハイム伝』第4章「アメリカ移住」


(1)波紋を呼ぶアメリカ移住

① バミューダ寄港

ベッテルハイム一家を乗せたソフィア・バーベジ号は、1855年2月、バミューダに寄港します。これは船体補修のためであり、少し時間がかかるようです。
香港を出てより、これでイギリスに帰るのかと思うと、どこか釈然としないものを感じていたベッテルハイムは、この機会に、アメリカへ渡り様子を窺うことを思いつきます。
それは、琉球にて終始、好意をもって接してくれたペリーに、今一度会えないだろうかと脳裏をよぎったのかも知れません。
そんな彼がアメリカとは目と鼻の先にあり、しかも長期滞在を余儀なくされるわけですから、本来、じっとして居られない質のベッテルハイムにとって、またとないチャンスです。
夫人バーリックは、一抹の不安を覚えながらも了解したことでしょう。
彼女にとって「もう少しで祖国に着ける。両親とも会える。子供たちの成長も、異国での苦労はすべてが雪げる。」と、胸を膨らませていたに違いありません。それが夫は「アメリカを見てどんなことを言い出すだろうか」と。
はたせるかな、夫ベッテルハイムが帰ってきたときに「これよりアメリカに向かう」とバーリックに告げます。
彼は、妻の胸の内には頓着なく、新興国アメリカの活況を説き、希望を語り説得に当たったものでしょう。
バーリックは、香港を出た時から、夫のため息ばかりの姿を思い起こしてもいたものでしょうか。
彼が子供のように目を輝かして、アメリカに移住したいことを語る彼の眼は光輝いて見えたのでしょう。
船が通常のコースから大きく西にそれて、バミューダに寄港したのは、ベッテルハイム夫妻の将来を暗示するものでした。彼女は、夫の話を聞きながら、改めてここにきっぱりと、夫ベッテルハイムを支えることが自分の使命と、決意を新たにしたのでしょう。
結局夫妻にとって、アメリカは終の棲家となるのです。

② 暗示するアメリカ聖書協会の史料

アメリカに移住したベッテルハイムは、どんな活躍を見せたのでしょう。彼にまつわる資料は、そんなに多くはなく、しかも断片的です。
その中でも、次なる資料は示唆に富み、彼のアメリカでの立ち位置や方向性を考察するのに極めて貴重な資料と言うことが出来ます。それに状況証拠を重ね合わせれば、ある程度彼の活躍ぶりが見えてきます。本稿ではその資料をもとに、ベッテルハイム像を浮かび上がらせていきたいと思います。
その資料とは、ある「解説書」の中に引用されたアメリカ聖書協会の記録の一文です。
このある「解説書」とは、新教出版社が1979年12月15日に発行した、ベッテルハイム漢和対訳「馬太傳福音書・馬可傳福音書」稿本復刻版に添付された「解説書」のことで、その中に「アメリカ聖書協会の史料」と題された一文が、彼のアメリカでの足跡を訪ね、拠り所とする資料です。まずは、その一文を以下に紹介します。

★ アメリカ聖書協会の史料
アメリカの聖書協会に残っている公式の資料には1855年、渡米したベッテルハイムが全米各地を巡回して日本に関する講演をし、自分の翻訳した聖書の出版費用を募金したことがかなり詳細に記録されている。
1855年6月、アメリカ聖書協会(以下ABSと略記)翻訳委員会は当時広東に駐在していたS・W・ウィリアムズに手紙を送り、ベッテルハイムのアメリカにおける行動を記したうえで、ベッテルハイム訳の評価を求めるとともに、将来の見通しをたずねた。ウィリアムズは同年10月13日付で返信を送ったが、その全文は1856年1月の『ABSレコード』誌に掲載された。
ウィリアムズは、日本にアメリカの領事が駐在するまでは宣教師を送ることは不可能であり、領事館設置の後も、宣教師は日本の敬意をかちとり、言語に熟達するまでは領事館付きの身分を与えられた方がよいという意見を述べている。ベッテルハイム訳については、それが琉球方言によるもので、沖縄以外で理解されないであろうという。彼によれば、「神の言葉の翻訳として不完全なものを、まず最初に出版し頒布する計画には反対であり」、むしろ多少遅れてもよいから充分な準備をととのえてから完全な訳を出すべきである。ウィリアムズは、ギュツラフ訳に関しても不完全な訳であると批評し、このような出版物は日本人の冷笑を招くだけであり、日本人が読んでも理解できないであろうという。
この手紙が雑誌に公表されたとき、ベッテルハイムはニューヨークに滞在していたが、これを読んで激怒し、反論をしたためて、同じく『ABSレコード』誌上に掲載することを要求した。(1856年2月2日付書簡)
この反論は、ベッテルハイムの性格と日本宣教に関する主張とを反映していて興味深いが、ウィリアムズに対する感情的反撥をむき出しにしたものである。ベッテルハイムは、自分の訳文は「純粋な」日本語であると主張し、それが日本人および現存する唯一のキリスト者の日本学者(ライデン大学ホフマン教授)から高く評価されたことを述べる一方、ギュツラフの訳は「日本南部で用いられるナマリしか書けない」原住民の協力で作られていると評している。ウィリアムズが、領事館設置までは日本宣教を控えるべきというのに対しては強い反論を試みている。この手紙でひとつ注目されるのは、1855年香港で出版された四つの分冊について、自分は関与しなかったし、監督することができなかったといっていることである。前述のように、スミス主教との軋轢を暗示する証言であろう。
ABSは、ベッテルハイムの反論に対して、慎重にとりはからう旨の返事を出したが、やがてベッテルハイムのほうも感情がおさまったのか、さきの手紙を撤回すると申し入れた。(2月18日付)

「解説書」9頁より

この史料は、アメリカの聖書協会に残っている当時の公式の資料を「解説書」の執筆者新見宏氏(当時、日本聖書協会総主事)が原文を忠実に翻訳され、解説を加えられたものです。
ここでは、ベッテルハイムがアメリカに移住し、持ち前の行動力で早速活動を開始したことを伝えています。
これに対して、アメリカ聖書協会では、ベッテルハイムの性急な性格や行動に戸惑い、やや持て余し気味の様子が見て取れます。
それが以前からの、ウィリアムズとの確執がアメリカにまで及んで和訳論争を巻き起こしています。
ところが、それがなぜかベッテルハイムが矛を収め撤回とは、不可解で唐突感はぬぐえません。
この史料を読んで要点と感想を述べるならば、次のように纏めることができます。

  •  まず、冒頭の「ベッテルハイムが全米各地を巡回して日本に関する講演」の記述からは、彼がアメリカに入って、いくばくもなく講演活動を開始したことに、アメリカ聖書協会は驚くとともに、その内容が日本布教の急務であり、そのための聖書の翻訳のための募金活動であることを明記していることです。

  • そして、アメリカ聖書協会の翻訳委員会は、ベッテルハイムと言う人物はいったい何者と、いぶかりながらウィリアムズに手紙を送り「将来の見通しをたずねて」対応に戸惑っていることが窺えます。

  • これに答えてウィリアムズの返信は、彼がつい最近発表した翻訳本は「沖縄方言で日本では通用しない」し、布教は時期尚早と戒めたものでした。

  • それに対してベッテルハイムの反論は、唯一のキリスト者の日本学者(ライデン大学ホフマン教授)を持ち出して激しく反論しています。

  • ところが、彼は「香港本は自分のあずかり知らぬところで出版された」と意外なことを言っています。

  • さらに不思議なのは、その後1856年2月18日付で、彼はその激しい反論を撤回したというのです。

アメリカ聖書協会の翻訳委員会の史料を要約すれば、こんなところでしょうか。この要約を項目ごとに、今少し深堀し調べてみると、ベッテルハイムのアメリカでの立ち位置や方向性が見えて来るのです。

③ アメリカに移る聖書翻訳論争

本題に入る前に、その時のアメリカの状況はどうであったのか、まず見ていきましょう。
当時のアメリカは、産業革命が進み、領土も広げ、西海岸にまで到達し(1848年)、さらに何と、その地に有望な金鉱が発見され(同年)活況に満ちていました。
そんな中で、懸念材料は、日本との国交がないことです。
アメリカにとって、ロシアの不凍港を目指した南下政策は気になるところです。
また、産業を支える捕鯨船が日本へ寄港できないのは大問題でした。捕鯨業界は1820年に、太平洋、特に日本近海に好漁場を見つけて以来、大挙押し寄せていました。捕鯨業者にとって、捕鯨船の薪水の補給や船員の休養のみならず船体の補修、緊急避難場所として日本との国交樹立は悲願でした。
そのアメリカの懸念をペリーが払拭し、悲願成就ができたというのです。
1854年3月31日に締結された『日米和親条約』は、いち早くアメリカにもたらされていて、7月11日にはニューヨークタイムスが、ペリーの功績を讃える記事を掲載しています。
時の人ペリーは、翌年の1月11日の帰国に際して、大歓迎で迎えられています。
4月23日には、旗艦ミシシッピー号がブルックリンの海軍基地に帰ってきます。彼は、この同艦から提督旗を下ろし、最後の儀式を終えます。
アメリカ議会は、ペリーの功績に2万ドルの報奨金の授与を決めます。また同時に『日本遠征記』(注―1)の制作・出版に40万ドルの、信じられないような巨額の予算が認められます。結局『日本遠征記』は全3巻に及び、3万4千部が印刷されたということです。(渡辺惣樹著『開国日本』205頁/サミュエル・エリオット・モリソン著・座本勝之訳『伝記ペリー提督の日本開国』=以下単に『伝記ペリー提督』と表記434頁』)
言ってみれば、この『日本遠征記』は、ペリー顕彰記録書でもあるわけです。
アメリカの世論は、彼のこの功績と人気ぶりに、大統領に祭り上げようとする動きさえあったようです。(前掲『伝記ペリー提督』429頁)
また、ペリーは、この『遠征記』の制作責任者として、ニューヨークのカルバリー教会(アメリカ聖公会)のフランシス・リスター・ホークス牧師(1798-1866年)に依頼します。そして、その制作にあたっては「ホークス師のつてを通じて、4番街8番地のアメリカ聖書協会の2室を編集室として借用できた」としています。(前掲『伝記ペリー提督』432頁)
そんなペリーにより巻き起こされた日本ブーム気運の盛り上がる最中、ベッテルハイムはやって来たのです。

④ ペリーの口利きか、早速の活動開始

ベッテルハイムがバミューダからアメリカを目指したのは、自分に好意を寄せていたペリーに会いに行ったのではないかとはすでに記したことですが、さらに彼は、香港を出発する際、ペリーに「もしアメリカに来る機会があるならば訪ねて来られよ」と誘われていたのではないかとも思われます。
彼は、乗っていた船の修理に時間がかかることをチャンスとばかりアメリカに行き、そこで、ペリーにより巻き起こされた日本ブームを見てしまったのではないかと。
ペリーの凱旋後の住所は、ニューヨークとあるだけで詳しくはわかりませんが、その後32丁目西32番地であることが知られています。ベッテルハイムの落ち着いた住所は、ニューヨーク市22丁目西246番地であったようで、いずれにしても、そんなに遠くはないようです。(エドワード・サリスベリー教授に宛てた手紙から=山口栄鉄著「異国と琉球」88頁)
おそらくペリーは、ベッテルハイムをホークス師にも紹介もしていたのでしょう。なんとなく、この彼が編んだ『日本遠征記』を読むと、ウィリアムズとベッテルハイムにかかわるところでは、ベッテルハイムに好意的な筆致が目に付くことからそう思えるのです。
ベッテルハイムがアメリカ移住早々に、活動を開始できたのは、ホークス師の教会内にある編集室に出入りすることによってできたことではないかと思えなくもないのです。
アメリカ聖書協会の史料の冒頭の記述には、ベッテルハイムが水を得た魚のように活動を開始した様子と、その彼の性急な活動に同協会が戸惑う様子が記されています。
この史料の冒頭部分は、まさに琉球入植後ほどなくして、強行した南部地方の行脚や、那覇の町での辻説法を彷彿させるものがあります。しかしこの時は不特定多数を頼った行動であるのに対して、アメリカの場合は、れっきとした講演活動であり、募金活動なのです。いかなベッテルハイムといえども、誰かの紹介とか協力がなければ叶わぬことと思います。彼がアメリカに移住してわずか3ヶ月後の聖書協会の戸惑いです。そう考えれば、当時の有力者の口利きと思わずにはいられないのです。
やはりここに、時の人ペリーの存在があったのではないかと想像できるのです。
おそらく聖書協会の翻訳委員会は、いきなりアメリカにやって来て、日本の宣教を説き、募金活動までするベッテルハイムとは一体何者といぶかりながらも、ペリーが後ろ盾ではぞんざいな扱いもできず、日本遠征参加者でもあるウィリアムズにその是非を問うたのでしょう。

⑤ ウィリアムズの見解

そして、ウィリアムズの返信は、まず、日本へ宣教師を送るには「日本の敬意をかちとり、言語に熟達するまでは見合わせるべきで、日本宣教は慎重であらねばならない」とかねてからの持論を述べています。
そして、ベッテルハイム訳については「それが琉球方言によるもので、沖縄以外で理解されないであろう」としたうえで次のように述べています。
彼によれば、「神の言葉の翻訳として不完全なものを、まず、最初に出版し頒布する計画には反対であり、むしろ多少遅れてもよいから充分な準備をととのえてから完全な訳を出すべきである。」としてギュツラフ訳にも触れ、それは「不完全な訳である」と批評し、さらに「このような出版物は日本人の冷笑を招くだけであり、日本人が読んでも理解できないであろう」と書き送っています。
これをまともに読めば、ベッテルハイムが激高するのはわかりますが、実はこのウィリアムズの意見は、自分に対しても言っていることなのです。
彼は、以前、漂流民相手に日本語を学習したこと、また彼らをキリスト教に覚醒させるために聖書「マタイ伝」や「創世記」を和訳したことは前の章で述べました。彼には、この時の教訓も脳裏にあるのではないかと考えられます。
その彼の教訓と言うのは、翻訳した「マタイ伝」にみることができます。
彼が翻訳した、その「マタイ伝」は、現在は一冊も現存していないようですが、そのほんの一部分は以下に引用されていて、みることが出来ます。
それは、高谷道男著『ドクトル・ヘボン』と門脇清/大柴恒著『日本語聖書翻訳史』の「マタイ伝」の翻訳記事です。
この記事は、それぞれに違うところを翻訳していますが、読んでみるといささか違和感を覚えます。

ウィリアムズの和訳「マタイ伝」

☆ 高谷道男著『ドクトル・ヘボン』に引用の「マタイ伝」第6章9~13節
9節:テンニゴザル ワタクシドモノチゝ アナタノオンナヲホメル 
10節:アナタノクニガ マイル アナタノオンムネニ 地デシタガフトヲリニ テンデモシタガフ
11節:コンニチノ ショクモツヲ オンアタエクダサレ
12節:ワタクシベツノヒトノ シヤクセンヲユルシケルトヲリニ アナタワタクシノ シヤクセンヲ ユルシテクタサレ
13節:ワタクシニ アダノコトヲサシテクダサルナ ソウジテアクジヲイタソウト イタシマストキワ ワタクシドモヲ タスケテクダサレ カノクニカノイセイカノヱイグワトウ アナタニ アランカギリアルナリ エムエム

『聖書』共同訳1992  
9節:天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。
10節:御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように地の上にも。
11節:わたしたちに必要な糧を今日あたえてください。
12節:わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
13節:わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。

☆ 門脇清/大柴恒著『日本語聖書翻訳史』5章3~6節「山上の説教」

3節:ヒンナ ココロノ ヒトビトワ テンノクニヲ モトメラルナリ
4節:ナゲキカナシム ヒトビトワ メデタクアリ コレ ソノヒトワ アンダクヲ モトメラル
5節:ヤワラカナヒトワ メデタクアリ コレコノヒトワ地の業(ワザ)ヲユヅラレル
6節:ハナハダ 義ニ シタカウコトヲ ヒモジカ カツ井アルヒトワメデタクアリ コレソノヒトワ萬服クアリ

『聖書』共同訳1992
3節:心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4節:悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5節:柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
6節:義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。

ここで気付くのは、成句の性質・内容の違いもありますが、高谷著と門脇/大柴共著からの引用とでは、同じ「マタイ伝」でも、日本語の使いまわしが随分違うように感じます。これは、おそらくウィリアムズが複数の漂流民から、別個に翻訳したためではないか、ということです。
思ってみれば、ウィリアムズは「二人の日本人から日本語を教わったと」と言っていることは第2章でも述べたことですが、この翻訳文の違いは、この二人の日本語の能力や方言の違いによるものとも思われます。
特に高谷著の方は、方言が強く反映されていて、後の彼の反省材料ともなったとみられます。
ウィリアムズは、聖書の日本語翻訳において、しかるべき日本の有識者を交え、時を待ち、方言やなまりのない正しい日本語でなすべきと主張しているのです。

⑥ 日本語学者ホフマン教授

しかしながら、ベッテルハイムは、こんなウィリアムズの事情など知る由もありません。彼は、キリスト者でヨーロッパの日本学者の権威、ライデン大学教授ホフマン(注―3)を持ち出して反論します。彼から自分の日本語は「高く評価を受けている」としているのです。
この「解説書」には、イギリス聖書協会「編集小委員会」(注―2)議事録として、1853年11月16日の日付で、次のような記事を載せています。

(ライデン大学の)ホフマン博士の、ギュツラフ博士およびベッテルハイム博士による日本語訳聖書分冊検討結果報告書の英訳が提出された。報告書によるとホフマン博士は後者(ベッテルハイム博士)を高く評価し、ギュツラフ訳よりもすぐれたものと考えている。

「解説書」7頁

ベッテルハイムの反論は、この報告書に基づいたものと思われます。彼はこんな評価を受けていたことに、大きな喜びを感じていたことでしょう。それがウィリアムズの、このように辛辣な返信では激高するのはよくわかります。
ホフマンが日本語と出会うのは、シーボルトの助手を勤めたことにあります。彼は、シーボルトが著わした、『日本/Japan』(1832年、ライデン大学刊)や『日本図書目録』(1833年、ライデン大学刊)に、助手として7年間、携わります。
間接的ながら日本文化に魅了され、どん欲にしかも地道に研究を続けるホフマンは、いつしか師匠シーボルトを凌駕するまでになっていきます。
その後、シーボルトとは不和となり、独自の道を歩むこととなります。
シーボルトは「日本へ行ったこともない人間に日本語が解るはずがない」と妬みでもしたのでしょうか。
このベッテルハイムとウィリアムズの応酬した1855年は、ホフマンが日本語と出会って四半世紀も経っていたころのことです。
杉本つとむ氏は、その著書『西洋人の日本語発見』176頁)の中で、ホフマンのことを「ヨーロッパ日本語学の頂点に立った学者である。」と称えています。
ベッテルハイムは、この当時のヨーロッパの日本語研究では第一人者の学者から評価を受けたと胸を張っているのです。

ところで、ここで気にかかるのが、彼がホフマンの評価をいつ受け取っていたか、と言うことです。
そう考えてみると、思い当たる節があります。
これも第2章で記したことですが、彼は琉球に入植して間もなくのこと、すでに「ロカ伝」を翻訳するも、イギリス聖書協会から「改訂要望あり」とクレームがついていることです。
すなわち、この記述では「1849年の8月、イギリス本国の琉球海軍伝道会に送付した『ロカ伝』は、採用は出来ない」としていることです。
それが、その後の1851年の記述には「4月までにルカ伝を5回も改訳する、」ともあります。そして、翌年10月にようやく浄書とあります。
この時は、当時イギリス聖書協会には、琉球語もしくは日本語を判定するほどの人物がいたか、ということを指摘しましたが、どうもクレームの主は、こうしてみるとホフマンであったとも考えられます。
すなわちイギリス聖書協会は、当代日本語については第一人者のホフマンに、その是非を伺っていたのではないかと。
おそらくこの時、イギリス聖書協会は、ベッテルハイムの和訳本のほか、彼と板良敷朝忠とで編んだ『英琉辞書(原題English-Loochooan Dictionary)』なる語彙集も、ホフマンに送っていたと考えられます。
ホフマンは、実際、日本へ来て日本語に触れたわけでなく、彼の現地報告ともいえる生の情報=『英琉辞書』は貴重な教材となったことでしょう。
彼とイギリス聖書協会がベッテルハイム訳聖書訳の評価をホフマンに依頼していた結果がこの記述となったのではないかと。
ベッテルハイムのウィリアムズに対する反論は、このような背景に基づいているのではないかと推察できるのです。

(2)ベッテルハイムの方針転換

① ベッテルハイムの所有権のこだわり

続いてこの「解説書」の注目点は、彼が「1855年香港で出版された四つの分冊について、自分は関与しなかったし、監督することができなかった」と、述べていることです。
ここでいう彼が「四つの分冊」と言っているのは、もちろん1855年、香港で発行された『路可傳福音書』、『約翰傳福音書』、『聖差言行傳』、『保羅奇羅馬人傳』の四書のことでしょう。
彼は、その発行には携わらなかったとしているのです。
それについて、この「解説書」の執筆者新見氏は「前述のように、スミス主教との軋轢を暗示する証言であろう。」として、スミス主教とベッテルハイムとの間にある意見の食い違いを指摘しています。
新実氏は、この「アメリカ聖書協会の史料」の紹介の少し前に、以下のような記述を載せています。
その記述には、『1855年版香港本四書』がどのように発行されたのか、その様子を窺うことが出来ます。その内容を要約すれば、

1853年11月16日の議事録によれば、1852年に「ルカ伝」、「ヨハネ伝」、「使徒行傳」、「ロマ書」の聖書を、それぞれに『路可傳福音書』、『約翰傳福音書』、『聖差言行傳』、『保羅奇羅馬人傳』と題して和訳した彼は、イギリス聖書協会に送付しました。(同年表より)それとともに、彼は、その所有権を強く要求したようです。
そこで審査にあたった小委員会は、その4種の和訳聖書は「ベッテルハイム博士の唯一の連絡者たるビクトリア教区主教に回送が妥当」と判断し、さらに「ベッテルハイム博士がそれ(所有権)を主張するならば返却すべき」と進言しています。
そして、1年2ヶ月後の1955年1月24日付の議事録は、(前年の)9月8日付のベッテルハイムとスミス主教の両者の書簡で「四福音書の日本語訳は、現在後者(主教)の手中にある」として、イギリス聖書協会からスミス主教のもとに四福音書が送られたことが確認できます。
さらに、スミス主教は、その内容に触れ「ベッテルハイム博士があくまで原稿の所有権を主張するならば出版は困難なこと」と述べています。
それでも、その後の4月の議事録には「スミス主教が1月11日付で『ルカ伝』、『ヨハネ伝』,『使徒行傳』、『ロマ書』の出版準備を進めている」と記されています。
結局「解説書」は、スミス主教が出版を強行した経緯を「余は彼の不条理な要求を拒否し、1854年、検事総長の助言により、あえて最高裁判所に提訴せんとしたのでB博士はついに屈した。」と書簡で説明しています。

新見氏がこの「解説書」で「前述のように、スミス主教との軋轢を暗示する証言であろう。」と記述しているのは、この経緯のことを指しているのです。
従って彼は、「1855年香港で出版された四つの分冊について、自分は関与しなかったし、監督することができなかった」と、ABSに言っているのでしょう。
とすると、筆者が前章の「ベッテルハイム琉球離任」の項で記した「ベッテルハイム一家は、その月の終わりには、早くもイギリス行きの船に乗っていますから香港滞在は半月足らずの間でしょうか。
その間に、聖書の「ルカ伝」、「ヨハネ伝」、「使徒行傳」、「ロマ書」の聖書を、それぞれに『路可傳福音書』、『約翰傳福音書』、『聖差言行傳』、『保羅奇羅馬人傳』と題してスミス主教に琉球での結晶を授けます。」と記したのは誤りで、その4書はまだスミス主教の手元には届いていなかったようです。
彼が琉球から香港に着いたときは、スミス主教とは対立関係にあったというのは全く意外なことです。ベッテルハイムが早々に家財をまとめ、イギリス行きの船に乗り込んでしまったのは、このような事情があったからなのでしょう。
それにしても、そんな悶着があったことや、彼がとった行動はいささか驚きです。
やはりと言うべきか、ベッテルハイムは、学問(語学や医学)では天才と言われながらも自己顕示欲は並外れて強い人物だったことが窺われます。
ベッテルハイム一家が琉球撤退時は、そんな波乱を含んでいたことになり、彼がイギリスに帰還するのに逡巡とした一つの要素でもあったと言うことができます。

② ベッテルハイムの反論の撤回はなぜ

それにしても、ベッテルハイムにとって、そんなに多く無い理解者に意地を通す性格はどうなのでしょう。
その後、「やがてベッテルハイムのほうも感情がおさまったのか、さきの手紙を撤回」とありますが、やっと、彼は事の善し悪しが分ったということなのでしょうか。もしそうであれば、そのきっかけや、その時期は、いつ、どんなタイミングであったのでしょう。
その疑問を突き詰めていくと、ある意外な人物が浮かび上がってきます。
その人物とは、ダンケッチと呼ばれる日本人漂流民です。彼とベッテルハイムは、互いに補完関係にあり、これらの疑問を氷解させるものがあります。
しかしながら、これから記すことは今までに、そのような文献とか史実があるということではありません。ベッテルハイムとダンケッチの前後の言動をすり合わせてみると、そんな仮説が成り立つのです。

ベッテルハイムがウィリアムズとバトルを繰り広げている最中に、ペリーがそれを知ってか知らずか分かりませんが、ちょうどその時、ベッテルハイムにダンケッチを引き合わせていたのではないかと。
その根拠は、彼があれほどこだわった、ウィリアムズへの反論も、スミス主教への所有権も、あっさりと取り下げています。それに加えて大きいのは、日本語への変換文字をカタカナから、簡単な漢字交じりのひらがなに目覚めていることです。
おそらく、彼はこの時、結構な知識を持った日本人に出会っていたと思われるのです。
そこで、そんな日本人がいたのか、と調べてみると、思い当たる人物がダンケッチなのです。
彼は、ペリー艦隊に唯一同行した日本人サムパッチ(仙太郎とも仙八ともいわれた)と同じ永力丸の漂流民で、不思議にも中国からの帰路、ペリー艦隊に加わり、アメリカに来たというものです。ダンケッチは、この時アメリカへ留学に向かうような形で乗り込んでいます。

③ サスケハンナ号にみるダンケッチ

ペリーの『日本遠征記』には「読者はカリフォルニアの沿岸で拾い上げられて、彼らの故国に連れ戻すため上海に連れて来られた日本人のうちでサムパッチは、吾が日本遠征隊と行をともにした唯一の者だったことを思い出すだろう。」と記した後、それに続いてもう一人の人物を次のように紹介しています。

ミシシッピー号が帰途支那に帰るや、他の日本人一人も合衆国を訪問したいと希望を述べてその願いを許された。‣・・・・彼はすぐにダンケッチ(Dan-ketch))と名付けられた。‣・・・・ダンは提督の保護を受けつつ非常な才知と熱心な知識欲を発揮している今彼が目指している通りに、もし吾が国についてもっと知った後に日本に帰るならば、疑いもなく彼は吾が国に関する少なからざる知識を彼の祖国にもたらすことになるであろう。

『遠征記』第4巻第24章187.188頁

日本や琉球と国交を結び、意気揚々と引き上げた中国で、ペリー艦隊はサムパッチのほかに、彼と同僚の日本人ダンケッチなる人物を乗せたとしています。
しかも、そのダンケッチの評価は「才知と熱心な知識欲を発揮して、行く将来アメリカとの懸け橋となるべく志を持ち」と高いもので、今は「ペリー提督の保護下にある」として、彼のもとに日本人がいたことを記しています。
ただ、その後、ダンケッチがアメリカで何をしていたのかの資料はなく、彼が史実に現れるのは、彼の同僚すなわち永力丸漂流民の浜田彦蔵が著わした『アメリカ彦蔵自伝(1)』まで待たなければなりません。その第17章「オールコックとの会見」の項によれば、それから5年後の1859年4月17日のこととして「1852年にサスケハンナ号で別れて以来、久しぶりの対面である。『ダン』(ダンケッチのこと)は広東のイギリス領事(オールコック氏)のところにいた。『ダン』の語るところでは、今度自分の主人が、わが国日本のイギリス総領事に任じられたので、主人が日本に立つとき、ついて行くことになっているとのことである。」(同自伝154頁)と記して、いつしか香港に帰っていることがわかります。
それも、彼がどこでどう人脈を得たのか、初代の日本駐在イギリス総領事ジョン・ラザフォード・オールコック(1809‐1897年)に付いて行くというのですから、アメリカで相当研鑽を積んだことが窺えます。

④ ダンケッチの死とオールコックの見解

そのダンケッチのアメリカでの状況を示すほどではないにしても、彼がアメリカに渡ったという記事のある書物があります。それは外ならぬオールコックが著わした『大君の都』の中にみることができます。
それによれば、ダンケッチはその後、晴れてオールコックの通訳として日本帰国を果たしていますが、残念なことに1861年1月29日、旧暦では、年明け早々の安政7年1月7日、彼は攘夷を叫ぶ浪人の凶刃に斃れています。
この時のオールコックの見解が、寡聞にして唯一アメリカでの状況を示す証言です。彼は、ダンケッチの「日本語は非常に役に立った。」としながらも次のように記しています。

彼は短気で、高慢で荒々しかった。かれは、帰国するさいに、このような性格を身につけて帰った――アメリカと中国で長いあいだ罰せられることのない生活を送ったおかげで、いっそう悪くなったのである。

『大君の都』中巻第16章65頁

オールコックは、ダンケッチをこのように断じています。
これはあくまで、オールコックの見解で、ダンケッチと日本の役人とで繰り広げるいさかいに、業を煮やし、辟易としていたことが分かります。
オールコックが「アメリカと中国で長いあいだ罰せられることのない生活を送った」と言うのは、日本人が日本の法律の及ばない世界で生きて来たがために日本人との意思の疎通ができなくなったと、突き放したような表現をしています。すなわち、彼のこの記述では「日本人として、日本の法律に従うべき」とし、西洋人の彼が東洋人のダンケッチに、差別意識が働いていたように見られなくもないのです。
これに対してダンケッチは、自分はイギリス領事の通訳雇人であり、何ら日本人におもねる必要はないとしているのです。そんな彼と日本人役人との間では絶えずいざこざがあったのでしょう。
おそらく、毅然と正面を向いて通訳する彼に対して、日本の役人は「もとは水主(かこ)の分際、低頭(時には叩頭)して話せ」というようなやり取りがあったのでしょう。
オールコックは、日常的に役人と口論をしているダンケッチを持て余していたのです。
このもとをただせば一漂流民のダンケッチが侍(役人)に対する、ふてぶてしい態度は当時として、全く異例なものでした。
当時の日本人漂流民が日本の侍と接した状況を調べてみると、ほとんどは委縮してしまって口もきけなくなるほどでした。言い換えれば、それほど身分制度が骨身に染み渡っていたのです。
例えば、例のサンパッチがミシシッピー号上で、日本に帰国意思があるかどうか質されたとき、ガタガタに震えてものも言えず、ただひれ伏すばかりであったといいます。
また、彦蔵も、サンフランシスコ近郊で、次作と亀蔵(ともに永力丸の同僚)とともにいる時、日本人の侍が近づいてきたのを見て「腰を抜かさんばかりに驚いた」と、さらに「追手が日本からやって来た」とも記しています。彼らは、太平洋の向こう側の外国アメリカにあっても、侍を見れば条件反応を起こすことを、このように言っているのです。実は、この侍も太平洋で遭難した漂流民だったのです。
従って、ダンケッチの日本の侍に対する態度や反応は、異常と言えば異常なわけです。

⑤ ひらがなに目覚めるベッテルハイム

オールコックの記述は、彼がアメリカに行っていた数少ない証言の一つと捉えていただきたく、あえて先行して引用したものです。
この彦蔵とオールコックの著書から見えてくるのは、ダンケッチが1855年からしばらくアメリカにいたこと、しかも『日本遠征記』にあるように、かなりの知識や自意識を身につけて帰ってきたことが窺われます。
さて、彼がアメリカから帰ってきたのはいつか、またどうしてオールコックに通訳に採用されたのかを考えるとき、ヒントとなるのが、ベッテルハイムの漢和対訳の『路加伝福音書』が1858年に、香港から発刊されていることです。もっと言えば、この「福音書」のみが香港より、この年に発刊されたのです。
ここに、ダンケッチとベッテルハイムの関係や、ダンケッチがアメリカから帰った時期に、ある程度ヒントを与えているのではないかと推定できるのです。

これも前章で記したことですが、ベッテルハイムは1852年に漢和対訳の四福音書をイギリス聖書協会に送っていますが、まだ浄書には至っていません。
それが漢和対訳の『路加伝福音書』のみが1858年に、香港から発刊されたということは、ベッテルハイムがダンケッチに託したものではないかと推測できるのです。
それは、スミス主教は1854年、ベッテルハイムと『1855年版香港本四書』の所有権の問題でもめている間にもかかわらず、彼に聖書翻訳を督促していることがウィリアムズの『随行記』の記述から分かります。
それは、ペリーがいよいよ日本へ2回目の遠征に出かける1854年1月14日の記述です。サスケハンナ号へ乗り込むウィリアムズは、「(スミス)司教と会ったが、彼は、聖書協会がベッテルハイムが着手している新約聖書の沖縄語訳の一部分でも印刷できるように、彼が仕事に精を出してくれることを促してもらいたい」と依頼されたと記していることです。
おそらく前後の関係から、ここでスミス主教がウィリアムズに依頼した「聖書協会がベッテルハイムが着手している新約聖書の沖縄語訳の一部分でも」と言っているのは漢和対訳の四福音書を指したものと思われます。
なぜならば、ウィリアムズがスミス主教に依頼された「着手している新約聖書」とは「未完の聖書」であり、すなわち、それは漢和対訳の四福音書のことになります。
ただ、この記述で少し引っかかるのは、それが「新約聖書の沖縄語訳の一部分でも印刷」としていて、漢和対訳の聖書ではないのでは、と言う疑問です。
これは、ウィリアムズの見解によれば「アメリカ聖書協会の史料」の彼の記述「ベッテルハイム訳については、それが琉球方言によるもので、沖縄以外で理解されないであろう」が示すように、ベッテルハイムが訳したものは、漢和といえども、彼ウィリアムズに言わせれば、琉球訳なのです。
従って、彼はアメリカ移住当初、この漢和対訳の四福音書の浄書を進めるとともに、公刊に向けた募金活動であったことがうかがわれます。
それがダンケッチとの出会いによって評価が変わったというべきでしょう。
おそらくダンケッチは、漢和対訳の聖書を見て「これでは日本人は、理解しづらいだろう」と見解を率直に述べたに違いありません。
彼は、「日本にはカタカナ、ひらがな、漢字があり、その順で覚える。日本の一般的な書物は漢字交じりのひらがなで書かれている。」ことを、ベッテルハイムに認識させたのでしょう。
ベッテルハイムは、この時、彼の直言で実用的な真の日本語に目覚め、ひらがな習得に向かって舵を切ったに違いありません。
そのためにベッテルハイムは、スミス主教に、今までに完了していた『路加伝福音書』のみを彼に持たせ、それが1858年に、印刷発行されたのではないかと。
ダンケッチのアメリカ滞在は、そのことから1855~57年2年間ほどのことと推定できると思います。
ベッテルハイムにとって、今までの日本人や琉球人と違って、はっきりと自分の意見を述べるダンケッチは、相当インパクトのあるものであったのでしょう。
ベッテルハイムの彼との出会いは、ウィリアムズの反論も、スミス主教との所有権の主張も取り下げるほどの力を持っていたと考えることが出きるのです。
さらに彼のその力は、自身の聖書和訳の方針転換のきっかけともなりました。彼は、漢字交じりのひらがな文字を使った日本語訳聖書に力を注いでいくことになります。

果たしてダンケッチとはいかなる人物であったのでしょう。
アメリカ帰りの彼が、いかにしてオールコックとの人脈を得たのか不思議と言えば不思議なことです。
また、オールコックの『大君の都』では、あまりに片手落ちの評価でしかないような気がします。
彼の名誉にかけても、今少し生い立ちを見てみる必要があります。
調べていくと、彼の最期もさることながら、一年のうちで二度も遭難に巻き込まれるなど、まれにみる過酷な宿命を背負った人物で、壮絶な生涯であったことがわかります。

(4)日本人漂流民ダンケッチの生涯

① 過酷な運命をたどる伝吉、出生の秘密から2回の難破

ダンケッチについて扱った書籍に、神坂次郎著『漂民ダンケッチの生涯』があります。これは、紀州出身のダンケッチを同郷の神坂氏が地の利を生かして書き上げられた伝記小説です。
それによれば、ダンケッチは、幼名を伝吉と言い、村医者保田多仲の娘サツが17歳の時、紀州役人に強姦され生まれたという設定です。時に文政7年(1824年)のこととしています。彼は、14歳のころ、自らの出生のそれらしきことを悟ったのでしょう。生まれ故郷を出奔します。
神坂氏のこのダンケッチの出生説で出典がないので残念ですが、彼の生涯を概観したとき、あながち外れてはいないような、むしろ、さもありなんと納得させられるものです。
後に彼は、永力丸漂流民12人とともに、日本へ帰るために乍甫(日中交易の中国側窓口)で待つ間のこと、そこからなぜか一人抜け出して、帰国を断念しています。
おそらく彼は、みんなと違って、帰る故郷のないことに気が付いたのでしょう。彼は「どうせ生きる術は船乗りしかない。帰ればまた元の木阿弥か」と自問したに違いありません。
しかし今の彼は、西洋の艦船で太平洋を往復しているのです。とてもまた、脆弱な和船に乗る気にはならなかったのでしょう。
そうなると、頭をもたげたのが「武士社会の日本をいかに生きるか」ではないのでしょうか。

彼は、15歳ぐらいで、大坂福島木屋市十郎の船乗りになったようで、このタイミングで名前を岩吉と改めています。そして、運命の1850年を迎えます。伝吉改め岩吉は、この年に、何と二度嵐に巻き込まれて遭難の憂き目にあっているのです。
この年の3月(嘉永2年2月)住清丸(沖船頭庄十郎以下16人乗り組み)は、江戸からの帰り、伊豆の妻良(めら)に寄港した後、遠州灘で嵐に遭遇、辛くも八丈島に漂着し、全員救助されます。彼らは、島に約3ヶ月間滞在ののち、便船を得て帰ってきます。
そして、次の岩吉運命の船出は、永力丸の航海です。永力丸は摂津国菟原(うはら)郡大石村(現神戸市東灘区)松屋八三郎の持ち船で。1,500石積みのいわゆる樽廻船で、船頭萬蔵以下17人乗り組んでいました。その中には、清太郎と安太郎の二人は、住清丸の時の同僚です。
永力丸は、帰り荷に、紅花や麻それに大豆や小豆、小麦などを積み、11月25日(嘉永2年10月22日)江戸を発ちます。そして7日目の12月2日、またしても彼の乗る船は、怒涛の波に激しく揉まれ漂流の憂き目となります。
しかし、この漂流も、50日目の年が明けた1月22日、(旧暦ではまだ年の明けない嘉永2年12月22日のこと)アメリカ商船オークランド号(ジェニング船長)に全員救助されます。ただ、助け出されたといっても、行先はアメリカです。

② 翻弄される永力丸の運命

1851年3月4日、日本の漂流民17人を乗せた商船オークランド号がサンフランシスコ港に入ってきます。
この漂流民に目を付けたのが当時、アメリカ東インド艦隊の司令長官J・H・オーリックでした。
彼は、国務長官ウェブスターに「この一行を日本に返還させる口実で日本との国交が開けないか」と、5月9日付で建議書を提出します。
オーリックの提案は、時宜を得たものとして、直ちに採用されます。彼は日本遠征の司令長官に任命され6月8日に、大西洋航路を東にとり、サスケハンナ号に座乗し香港へ向かいます。
このオーリックの提案を受けた、一方の永力丸漂流民は、翌年の3月13日、セントメリー号に移乘し、ハワイ経由で香港に向かいます。永力丸漂流民とは、中継地香港で落ち合う手はずです。

香港への途上、ハワイに寄港した4月3日、船頭の萬蔵(享年63)が亡くなり、当地に埋葬されます。彼の死は、水主たちに微妙な気持ちの変化をもたらします。
それからセントメリー号が香港に着いたのは、5月22日、そこに待っていたのが、先に着いていたサスケハンナ号です。
彼らは早速、サスケハンナ号に移乗させられます。しかし、この時サスケハンナ号は、司令長官オーリック提督は何故か解任され、そのあとに指名されたペリーの到着を待っている状態でした。
この滞在が長引くにしたがって彼らに「本当に帰れるのだろうか」と不安が募るようになります。
彼らは、1852年夏の暑い日が続いていた6月下旬~7月のころ、対岸の九龍へ出かけた折、神社らしい場所で神主のような老人に「日本に早く帰りたいなら、まず、南京に行きなさい」と、情報を得ます。すると彼らは、帰国するのにサスケハンナ号から脱出して南京向かうグループと、留まって遠征隊に加わるグループの二派に分かれます。
その内訳は、脱出組が岩吉のほか、播州の清太郎、源次郎と安太郎、岡山県備中の徳兵衛、備後の亀蔵、鳥取県伯耆郡出身の文太、愛媛県上島町の大吉、香川県讃岐の京助の9人
一方、黒船残留組は、播磨町出身の彦蔵と甚八、次作、喜代蔵、摂津の長助と幾松、安芸国生口島の仙太郎の7人でした。

香港から南京までの距離は相当なものですが、当時彼らには地図で確認するもそんな距離感がなかったのかも知れません。
ここで岩吉も、日本への帰国を早く現実なものにしたいと、脱出組に入っていっていることは、その後の彼の行動を見たとき、意外な気がします。
住清丸で生死を共にした、清太郎や、安太郎が入っていたからでしょうか。
いずれにしても、この脱出組の企ては、決行したその日の夕方、身ぐるみ剥がされ惨憺たる状態で帰ってきます。

やがてサスケハンナ号は、当時騒がしくなっていた太平天国の攻勢で危うくなっていた上海に、漂流民を乗せて回航します。
この時、永力丸漂流民は、彦蔵、亀蔵、それに次作の3人が、いま一度アメリカに戻るといって、香港で抜けていて13人となっていました。
サスケハンナ号が上海に到着すると、情報を聞き付けてやって来たのが、今では、著名な実業家となっている元宝順丸漂流民音吉です。

③ 実業家音吉

当時音吉は、デント&ビール商会(中国名=宝順洋行)の共同経営者のトーマス・チャイ・ビールのもと支店長(storekeeper)を勤め、上海では知らない人はいないほどの頗る著名人でした。
ビールは、中国にあって、内外問わず極めて人望の厚い人と言われ、音吉は彼のもとでめきめき頭角を現したようです。
その彼は、仕事柄か、間もなくアメリカが日本人漂流民を連れた使節団が日本へ派遣される情報をつかんでいました。
サスケハンナ号が上海に到着すると、音吉は、悲愴な経験から、軍艦で漂流民を送り返すことの危険を語ります。
彼は、サスケハンナ号艦長を言い含めて、永力丸漂流民を自らのもとに保護することに成功します。ただしこの時、保護したのは12人で、何故か一人だけサスケハンナ号に残ったというのが仙太郎(仙八とも)と言う当時20歳の若者でした。

一方のペリーは、もともとアメリカを出るとき、上海の寄港は予定になく、香港へ着いたなら、艦隊の編成を組み、当地を日本遠征のベースキャンプ地として、兵站の確保と連絡の後方支援として整えた後、直接第一遠征地の琉球を目指すつもりではなかったかと思われます。
それが、鋭意香港に着いてみると、思ったほどの艦船数は集まってなく、しかも、旗艦となるべきサスケハンナ号は、指揮官に無断で上海に回航されてしまっていたのです。
そのために彼は、渋々ながら上海に回航したところ、いざ上海に着いてみると、連れて行くはずの日本人漂流民のいないことを知り激怒します。
彼は、度重なる規律違反に、直ちに連れ戻すよう厳命します。
ペリーにとって、日本人漂流民の送還は、日本攻略のカードの一つであったのです。さらに言えば、前年、オランダを通じて、日本に日本人漂流民を乗せていくことも通達してもいたのです。
ペリーが厳命した日本人漂流民奪還作戦は、音吉の巧みな弁舌に会い失敗に終わります。

潮騒令和塾 第9回資料より

結局ペリーは、大事の前の小事と悟ったのか、日本人漂流民の同行をあきらめ5月17日、決意を新たに、日本に向けて出港していきます。
このペリーがあきらめたのに、少し看過できない記事があります。
それは、前掲『伝記ペリー提督』の著者であるモリソンが上海でのペリーの行動をピックアップしていて、その中でペリーが「また、ビールという英国人が所有する植物園を訪れたが、同行したハイネは異国情緒あふれた花々をスケッチし、ビールは提督の来援を記念して、ツツジの花の一種にペリアナという名前を付けた」というものです。(前掲『伝記ペリー提督』302頁)
確かにビールは、上海の自宅の敷地内にちょっとした野鳥園を持っていました。これは同じ永力丸漂流民徳兵衛の証言によるものです。
彼によれば、ビールは広さにして430㎡(130坪)ほど、高さは6から9mの周囲を銅の金網で囲い、中に野鳥を飼い、築山や泉水を施した庭園があったと証言しています。(毎日新聞の岡山版に掲載された小林一彦氏による『ペリーから逃れた岡山人 備中徳兵衛漂流記』参照)
ここは、個人としては立派な庭園で、上海ではちょっとした名所だったのでしょう。
ペリーは、ビールを通じて、彼の部下である音吉の生い立ちなど、情報を密かに得ていたのかも知れません。

ペリーとしては、香港で日本人漂流民を乗せて、すぐ琉球に出発するつもりでいたのが、こういった事情で手間取り、結局、琉球到着は、主席通訳を依頼したウィリアムズと同じ日になってしまったということです。
彼とベッテルハイムの「バツの悪い朝食会」と前章で紹介しましたが、こんな事情がありました。

ペリーが去ったあと、永力漂流民は帰心矢の如しで、音吉邸を辞し、単独で長崎との定期港である乍甫に向かものが出ます。音吉は「乍甫の君たちを預かる船会所は、太平天国の乱の影響でなかなか船は出ないし、食事等も甚(はなはだ)悪しく、長期滞留は難儀であり、私一人で皆さんの世話をすることはできる」からと、説得します。しかしそれでも、乍甫へ向かうものが出ます。
結局、音吉は「皆さんの気持ちがわからないでもない」と、5月27日、送り出すことにします。彼らが音吉邸宅に滞在したのは約2ヶ月に及びました。
音吉はその後も、彼らの日本へ出発まで、何くれと面倒を見ます。そして、ようやく約14ヶ月の後、帰国の日1854年8月5日(嘉永7年13日)を迎えるのです。
長らく待つ間の彼らは、乍甫に来は来ましたが、実際音吉が言ったように、あまりの劣悪な環境に一同、改めて音吉の世話に感じ入るのでした。音吉も心配でその後も、見舞いや気配りを怠りません。
彼らは、異口同音に音吉邸を離れたことを悔やみ、彼が話した体験談を思い出しては感動を新たにするのでした。

④ 岩吉改め伝吉、再び音吉邸に

この時、日本への帰国を待つ12人の中で、11人が帰国の途につき、長崎を目前にして京助が、そして長崎での取り調べ中に安太郎が亡くなり、それぞれの故郷に帰還できたのは9人でした。
そして、12人中のただひとり、紀州出身の岩吉は、日本へ船便を待つ間の3月20日、乍甫の宿舎から抜け出し、帰国をこの時は断念しています。
岩吉がその後、史実に現れるのは、前述したようにペリー艦隊が日本での任務を終え、アメリカに帰る1854年8月上旬のことです。その時の名は、ダンケッチと呼ばれていました。岩吉のもとの名、伝吉がなまったものでしょうか。

彼らが乍甫で待ちあぐねる中、音吉の生きざまを見た岩吉は「武士社会をいかに生きるか」の疑問が思い浮かんだに違いありません。そして次に「このまま手ぶらで帰っては、前と何にも変わりはしない。もしも、音吉さんのようになることができたなら、侍を見返してやることができるかも」と。
音吉が語った体験談の中で、彼の頭に繰り返しよぎったのは、音吉が通訳として、イギリス軍艦マリナー号のマセソン艦長に雇われて、日本へやって来た時の話ではないかと思われます。

このマリナー号とは、1849年5月、イギリスが将来を見据えて、日本の主要港の浦賀と下田を測量調査のため派遣した時のことです。
おそらくこの時の話も音吉は、永力丸漂流民に言って聞かせていたのではないかと思うのです。
その時,イギリス軍に請われて帯同した彼は、林阿多(リンアトウ)と名乗り、中国人として只管(ひたすら)身を偽ったもので、日本人とばれたら「捕らえられ、なぶり殺しの死罪になる」ことを本当に心配であったというではないか。
しかし、現実はそうはならなかった。むしろ、拍子抜けするほど「侍は慇懃な態度であった」という。
そして、音吉は、我々12人を2ヶ月も世話をし、さらに餞別までくれて、家計はびくともしない、まるで大名のような暮らしをしている。彼は、その商いと語学で今を築いたという。
「俺はみんなと違って帰るところなんかないのだ。慌てることはねぇ」と。

彼は、やがて音吉に中国に残り、今少し語学や新しい社会の研鑽が積めないか、相談してみようと思うようになっていったのでしょう。
話を聞いた音吉は、若干躊躇するも「考えてみよう」と返答でもしたのか。
音吉は、一応本心を確かめたのち、少し期間をおきて、その道を探したのでしょう。こうして彼は、再び音吉の家に戻って来たに違いありません。
岩吉は、音吉のもとに移ってより、名前をもとの伝吉に改めています。

伝吉が再び音吉邸にいたのは、3月20日に乍甫から抜け出してから、ペリー艦隊に乗る7月下旬までの間の約4ヶ月間と思われます。
おそらく音吉は、その間に上司ビールにも引き合わせたことでしょう。
結果的に伝吉は、アメリカへ行くのにサスケハンナ号に便乗し香港に向かうわけですが、それには、ペリーがビールの庭園を訪れていて知己を得ていたことがモノを言ったのではないかと思えてきます。
思ってみれば音吉は、ペリー艦隊が日本遠征の壮途に就くときに、彼らから保護した人物を、1年2ヶ月後の彼らが悲願を成就し凱旋したとき、今度はその人物を、アメリカに託すということになったのです。
ここにダンケッチこと伝吉は、香港でペリーにより許されて、ミシシッピー号に移乗し、アメリカへ向かうこととなったのです。

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