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めくる。

 テレビ欄しか見なかった新聞を、1枚だけ遡って三面記事を読むようになったのはいつのころだったろう。時間がなくても一面だけにはきっちり目を通すようになった今、新聞の読み方の変遷を脈絡もなくなぞり始めた。

 赤出汁が好きだった時代を経ていつの間にやら白出汁派に鞍替えしていったように、人は凹凸のない滑り台を下るようにして変化していく。変化の始まりと終わりだけを抜き出し並べるとまったくの別人、その変貌ぶりに途中経過を知らない者は誰もが驚くだろうが、積み重ねていく本人は至極当然の微々たる変容をシームレスに繰り返しているだけで、その結果、A地点とB地点に些少の差が生まれた、そうした語るまでもない微々たる変化をしただけだ。
 語るに足りぬ変化の理解者を自分以外に求めるならば、ずっと一緒に過ごしてくれる幼馴染が存在していたかどうかで決まる。

 ところで変化は成長なのか?
 しばらく考えて、違うなと結論づけた。右肩上がりに伸びていくのが成長というものだから、上下左右の不規則運動を繰り返す変化は成長にあらず。偶然にも右肩上がりが連なれば変化は成長しているように見えるだろうが、気の迷いのような右肩上がりを成長と勘違いしてしまってはいけない。危険だ。

 人生に浮き沈みの波は無数にやってくるけれど、成長期には浮いて浮いて浮かべるだけ浮いて、肺活量測定における最後のひと吹きで貧血を起こすほど息を絞り出すように吐いて上り詰め、頂点に達したら上昇期は、はいそこまでよ、あとは下るのみの人生よ、一度下降し始めればあとは沈むばかりなり、1回こっきりのチャンスしか与えられない波乗り人生、それが肉体的成長というものよ。
 比して変化は、足場をどこにつくろうが自由自在。終電逃せば深夜バス、そうした切り替えがルーティンな右肩上がり、人生のすごろく上がりの登頂人生に、息を抜く穴、抜け穴、転落落とし穴を開けていく。
 
 人生で、変化はまわり道。新聞の読み方変遷が、いつの間にやら遠まわり。

 読む時間が過不足なく取れる朝はいい。一面に目を通し終えたあとでも、紙面をめくるゆとりがある。
 めくると新聞は決まって「こそばい」と声をあげ、身をよじる。衣擦れならぬ紙擦れの吐息は誰もが耳にしたことのある彼らの性癖。カサ。コソ。ほらまた吐息を漏らしてる。鼻をくすぐられたわけでもあるまいに、たまにクシュと漏らす。まんざらでもない反応を見て、それは短い会話だと会心する。

 気持ちにゆとりがある時は、箸が転んでも、笑いを吹き出すことなく、好奇の目を紙面に向けていられる。社会や世界を知ろうとする知識欲が怠惰を踏み台にして跳躍する。

 先のページに刻まれた「これから読まれる記事」に期待を寄せ、紙面をめくる。

 人様に話して聞かせるまでもない我がケシ粒ほどのこの人生、その道の途中で新聞をめくっている。1枚めくるごとに「ふむふむ」「ええっ?」「まさか!」「ほお」「すごい!」「くだらん!」と、ひとり、ごちる。
 めくるたび、実はもうひとつの思いが去来する。社会で起こる物事のひとつひとつに、私は心を動かされている。踊らされていると言い換えてもいい。社会は三蔵法師で、私は有名になれない孫悟空だ。紙面にまとめられた新聞大の世界の上で、私は弄ばれている。
 新聞をめくるたびについてまわるもうひとつの思い。私はめくると同時に社会にまくし立てられている。

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