1日の始まり。
疲れが肉体を支配しくったりする朝は、思考も弛緩した筋肉同様動きが緩慢になる。人は劣化で記憶を薄めていき、しまいに痴呆に向かうのは、死の恐怖を和らげる自浄作用だと聞いたことがある。いよいよ終焉に向けての活動が、再び動き出す活火山のように、平然を装った見掛け倒しの内側で、むくり半身を持ち上げたのだろうことを思う。
すべては、怠惰を受け入れるための言い訳であることくらいわかっている。それでも受け入れなければ気力の蒸発し切った萎れた躯体に鞭打たなければならず、最後の気力を絞り出さなければならなくなる。
問題はここなのだ。今がその時か? 最後の際の決断のしどきなのか? 投げなしのゼニを放るような真似をして、その後に生きていく余力が残るのか? 息さえままならぬほどに命が絶え絶えになってしまったら、それこそ本当に死んでしまう。
今は? その時じゃない。だからあともう少しだけ。獣も傷ついたら寝て治すじゃないの。今少し体を休めていれば、きっと倒れたリングの上で立ち上がることができる。
「立つんだ!」とセコンドが叫んでいる。カウントはまだテンを数え終えてはいない。
疲れの限度の深淵で、遠くに聞こえるエールを耳にする。手を伸ばせば目覚ましの叫びをポチッと押して消せるのに、それさえままならない。
あと少し、寝かせておいてくれ。
そうすれば……。
だけどもう遅刻の言い訳に「新型コロナの疑いが」は使えない。使いすぎてしまったから。早い時間の出社組は、あと20分もすればオフィスの鍵を開けるだろう。その時を見計らって、上司が来る間の平穏な時間帯に納得の言い訳砲をぶちかます。
考える猶予はあと20分。
さて、と考え始めたら、すっかり疲れの眠気が吹き飛んでしまっていた。
出社規定時刻まであとちょうど1時間。急げば、間に合わないことはない。仕方ない。やるか。
今日もまたこんな感じで始まっていく。
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