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こんな表現、ふつう浮かばない。

単語や熟語を含めて、知らない表現ってたくさんある。

道しるべとして、本を読む。
どれだけ読んで知識を積んだつもりになっても、辞書にはとうてい敵わない。その辞書でさえ、表現まで教えてくれない。
道のりが遠いことはわかっている。
だけど本を道しるべにする。
長く遠い道のりの見えないゴールを目指して、スケッチブックに飛んだブルーブラックの滴のような一歩を刻む。
刻み続ける。

道のりの遠さで思い出すのは、ズーイの長い講釈。ネットサーフィンの猛者をもってしても敵わない目まぐるしく変わるズーイの視点に、終わりは見えない。
説教を一身に受けざるを得なかったフラニーにしてみれば、耐えたくもない忍耐を強いられる日記にさえ書き残しておきたくない時間だった。

ズーイの長い講釈は、それでも途中途中で沈黙の切れ目が分け入る。意識していなければ見過ごしてしまうほど小さく、重みを持たない息の継ぎ目ほどの切れ目。
そのひとつの切れ目に、フラニーが割り込む。

『フラニーとズーイ』の、ふたりの間のひとつに、サリンジャーはこんな表現をあててきた。
「フラニーはそれに続いた僅かな間を利用して、背中の位置を少し直した。まるで何らかの理由で良き姿勢が、あるいは少しでもましな姿勢が、今にも何かの助けになるかもしれないというように。」

あるいは少しでも訳者の意図がこもるように、村上春樹氏が遊んだ言いまわしだったのかもしれないけれど、サリンジャーはそこに、声には出ない感情の揺れを意図して込めたことは明らかだ。

こんな表現、ふつう出来ない。
ため息が出た。

ふうっ。

ビジュアル的な「ふうっ」だった。

作品を少し調べると、『フラニーとズーイ』はどうやら映像化はされていないようだ。
ただ爆笑問題の太田光氏が大学時代に演劇の題目として選んだとあった。

あの、噛み合わない巨大な歯車がぎこちなくガクガクと動くような喋り方で話すズーイ、見てみたいような、見ずにしまっておきたいような。

上記イラストは、読書で描いた物語の大木からこぼれ落ちた想像上の一葉。


本のページという幕は閉じ、涙をたくさん流したフラニーにも気持ちの凪が訪れた。


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