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旅行雑誌編集者-2 編集業務

 職業斡旋所であらゆる職を取り扱うような人でない限り、隣の芝生で働く人の業務の機微を知ることはできない。ドラマや小説で疑似体験できないわけでもないけれど、所詮数時間で完結する、その気になっただけのうたかたの夢。いくらブラックジャックを耽読しても、才と財と意識の高さ、それに加えて過ぎ去る前に気づく堅牢な知恵がなければリアルな世界で許諾されたメスは振るえない。

 職は、深くややこしい。食よりずっと複雑で、容易くない。世の中、お金を払えばどうにかなることもあるけれど、職業はそうはいかない。もとよりお金を払うべきところではなく、お金をもらう立場なんだもの。どうにかしたいのはこちらではなくお金を払うあちらさんなのだ。どうにかしたい人たちの要望にはきっちり応えていかなければならない。我々は要はお金を払ってくれる人のシモベなのだ。リクエストには誠心誠意応えていかなければならない。

 求められるものに常時、平均点以上の答えで応えていくーーこのスタンスが仕事を辛くさせる最大の要因である。だけど苦しいからこそ、我慢のトンネルを抜けた先の輝きは、雪国の白銀以上に美しい。

 そのような本業の業務にとはかけ離れた現実逃避を図るも、机上に目を移せば文字を埋めていかなければならない白紙の原稿用紙が山と積まれている。書き出しは? 見出しは? どうする?

 まずは作稿に入るまでの作業を振り返ることにしよう。
 取材から帰ったら真っ先に誌面構成を考えて、デザイナーと打ち合わせ。カメラマンの撮影写真は業務用ラボにまわせば首を長くする間もなく上がってくるから、柱だてを考えて大見出しと小見出し、文章量をビジュアルと相談しながら詰めていく。
 イラストが欲しかったら事前にイラストレーターに発注しておく。イラストが後手にまわった場合は、デザイナーにスペースを空けておいてもらって、指定した大きさでイラストを発注する。
 切り抜き写真は取材時にあたりをつけ、撮影してもらったものを当てる。
 全体の構成はバランスが取れているか、紹介地は最初の意図どおりに伝えられそうか、情報量は誌面のボリュームに見合っているかを考え、レイアウトを組んでもらう。と、まあ、こんな感じ。

 お膳立てが整ったら、いざ原稿書きである。
 原稿は、デザイナーにレイアウトしてもらった先割りで、文字数を数えながらまとめていく。
 おおよそ何をどのように書くかは決まっている。それでもいざ原稿用紙に向かうと、言葉選びに仕事運びの足が重くなり、止まる。ふだんはケ・セラ・セラの性格が本番を前に緊張し、緊張が書く手と指令を出す脳を強張らせる。
 この瞬間が厄介なのだ。作稿に至るまでの煩雑な作業が、ライティングというもうひとつの本番を迎えるまでに、仕事の情熱を燃やし尽くす。
 考えてみれば、原稿を書くにはそれまでとは違う思考回路が必要なのだ。前者は物理的業務で、後者は精神的業務。換言すれば、こなす仕事と創る仕事。前者の波長で作稿作業に突入しても、いい原稿が書けるはずがない。
 これが、作稿を阻む壁。切り替えスイッチを必要とする所以である。

『万葉のころより神鹿として崇められ、』と書いては主体が鹿になる、違うなと原稿用紙をクシャとやり、『奈良といえば』と書き出し、あまりのつまらなさに己の才のなさを嘆きポイしたり。しばし原稿から離れて現実逃避を試みて、再び、三度、原稿用紙に向かってはウンウン唸ることしきり。
 産みの苦しみ、苦労はいつか実をつける。ついに。
『奈良の旅は地図から始まる。』
 ん? これならいけるかも。といった具合にスロースターター原稿書きの火蓋がやっとのことで切って落とされる。『嘘だと思うのなら、まずは地図を広げてみるといい。』うんうん、いい調子。山辺、明日香、長谷寺あたりまでを網羅する大和路の旅には、流れるようなコース作りが必須だったのだ。

 紙媒体はネット媒体とは違う。紹介に必要な情報を与えられた情報量に応じて発信できるわけではない。紙媒体のパラパラめくることができる特異な検索性と引き換えに、たいがいの場合見開き単位で完結させなければならない。そのせいで、各紹介ページの情報量が誌面のボリュームと見合わないといった不均衡が往々にして生じる。
 情報量が多く誌面が足りないといった事態が問題の表面だとすれば、逆に誌面を埋められるほどの情報がないといった事態が問題の裏面となる。2ページではスカスカになるが1ページだと足りない、だが慣例上1・5ページで紹介することはできない、というようなことだ。
 ネット媒体と比べると、タイムリー性、コスト面的に負けず劣らずの太刀打ちできない決定的な欠点である。

 新聞と違い、見開いた誌面の空間的制約上、ページの途中から紹介記事を始めるということはできない。
 雑誌1冊の中で足して引いての計算が、最後ーーつまり一冊をとおして辻褄がぴたりと合うこともある。合わないこともある。合わないから合わせることもある。だが調整する場合、辻褄合わせができるのはすべてのタマが出そろってからだ。
 取材陣は続々と取材から帰ってくるし、先陣を切って編集部に戻り原稿を書き上げひと仕事を終えたチームも、次なる取材が腹を空かせた大蛇が大きく口を開けるようにして待っている。取材期における編集兼ライターの仕事は、終えるがスタートなのだ。すべてのタマが揃うまでにはもうしばらくの時間を要する。

 原稿を受け取ったデザイナーは上がってきた原稿をレイアウトに流し、入稿作業に入る。全体の調整などできるわけもなく、ベルトコンベアーで運ばれてくる素材をひとつひとつ形にしていくことに余念がない。
 時間は限られている。所定の時期まですべての原稿を印刷所に入稿しなければ、発売日に雑誌を発行することができない。つまりすべてのタマが揃っても、全体を俯瞰して調整できる時間は限られている。

 必要に迫られれば入稿直前、あるいは初稿時に各ページのボリューム調整を行うことはある。間に合わなければ、濃淡まだらな情報の緩急を残したまま、発行に向けて仕事が進んでいく。
 たとえるなら、アッサリ味と濃厚な味わいとのコラボレーション。
 実はこれは悪い状態ではない。
 同じ濃さの料理ばかりでは飽きがくるのと同じように、誌面の中での箸休めは必要だ。といって納得することにする。
 まずったかな、という後悔の念を引きずっては次に差し支える。反省は、次回の事前策に活かそうと心に誓う瞬間だ。すっかり慣れっこになっている。

 ここまで読んでくだすった方々に念を押すようで申し訳ないのだが、さも誌面に濃淡があること自体に問題があると思ってもらっては困る。雑誌は一冊でひとつの商品。緩急がつけられた紙面づくりがなされていることこそが必要なのだ。そう受け取ってもらえているとありがたい。

 ま、実を申せば、心中いつだって揺れているのだけれども。仕事を採点すると、なかなか100点満点を上げられない所以。

 このシリーズはさらに続く。何について書いていくか、またまた未定ではあるけれど、次回もまた読んでいただければ幸いです。

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