二元論の幸せ


この真夏に雪を見た。
直前まで降っていた雨が小雨になり、質量の軽くなった水分が電車のライトに照らされているだけの話ではある。でもあのふわふわした独特な動きは雪だった。一気に雪の感触が思い出されて寂しくなった。

雪といえば2年前の冬にぶっ倒れた発作が久しぶりに出た。もうごめんだと思ってた辛さだったから回復し、次の冬は回避できるようになった私は過去の私とは違うから大丈夫だと思い込んでいたのが仇になった。
何が起きるのか予測できないしそれを楽しむ余裕すらないことにここ数日でようやく気がつけた。

質問されても上手く考えられない瞬間なんかは無性に逃げ出したくもなる。
暑さのせいにしていいだろうか。
何が好きなんだっけ、なんでここにいるんだっけ。
本当にわからなくなる、なんてことが解ったあとぶっ倒れた。
部屋のブラインドと少しの壁紙を犠牲にして、直すために先輩に借りたインパクトでネジ留めをするにもいつもの何倍も時間をかけて。

頭を冷やしたい欲求から無性に雪が恋しくもなる。
思ったより人間は一気に腹八分目が来るし生き急ぐこともしがちで気が付けない。生きるって難しい。よくわからない自分自身を生きるのはもっと難しい。

先輩に「幸せってどんな感じ?」と聞かれて隣で先に展開する同期の自論を聞くうちに、自分の中で提起できる幸せが二軸あることに気がついた。
努力の上で勝ち取ったものやその過程に見出す幸せもあれば、嘘偽りのない本当の施し受ける時を指すこともあったなと。前者の幸せは同期ともほぼ同じで、欠点を補うための努力は自分次第でどうにでもなる作業だから堅実的な幸せだと思っている。でも後者は違う。一度でも体験したことのある経験が為せる、自分1人では到底気がつけない幸せだったな、と。ここ最近の回らない頭に拍車をかけてアルコールの入った勢いでダラダラ先輩に話すうちに自分の頭がスッキリしていくのがわかった。

見えなくなっていた目的とか何が好きで何が嫌いだったのかも一緒に思い出せるようになってきて、もうちょっと頑張っていけそうだなと思う。人間、そんなに脆くないらしい。いや私はもっと過去に学んでほしいよと思いながら、久しぶりにはた迷惑な文量のお気持ち表明文をこうやってしたためている始末だ。一ヶ月前にもらった後輩からの連絡に「感情は忘れるから文章にしたらどうだろうか」と伝えた自分の言葉に追い立てられてこうやって着地のないネタを書きながら自分の感情を探っている。
2年前の冬はちゃんと辛くてちゃんと学んだこともたくさんあった。底辺を体感した後に出会った受け取った新しい価値観の幸せ(後者の幸せ)を体感することで今ここにいるんだったな、と思い出せたことで今回の無茶は水に流そうと思うし休める時にちゃんと休もうと思う。
では、おやすみなさい。

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