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「桜、きれい」の先に見ている景色

夜桜を見に子どもとでかけた。
そのあとカフェでご飯たべようよ、と誘ったら、喜んで行くとついて来た。

わざわざ夜から桜を見に出かけるなんて、子どもがそんなことができる年齢になっていたことに、まず驚く。
風邪をひかせてはいけないとか、寝る時間が遅くなってしまうとか、もうあんまり考えなくていい年になっていた。

満開の桜並木、思ったほど人はいなかった。
特に桜に目をくれるでもなく歩く、仕事帰りらしき人たちとすれ違うくらい。
スマホを持ち始めた子どもが、桜の木の幹のひこばえを撮影している。
空いっぱいに広がる花びらにもカメラを向ける。
私も同じことをする。
どっちがうまく撮れたか見せ合おうと言われ、お互いの写真を見せる。
自分のほうがうまいと子どもが得意げに言う。
そうかなー、と私は私で自分の写真が好きだと思う。たしかに、技術的には子どものほうが上なのかもしれないけれど。

同じ景色に立ち、桜がきれいだねと同じことを思うけれど、そのきれいの先に見ているものが、私たちは違うんだろう。
私は今年の桜を見ながら、これまで見てきた桜のことを思い出す。
小さい頃に住んでいた町で見ていた桜や、会社帰りにふらりと寄った桜の名所、悲しいことがあった日に見た山際に連なる桜、ひとりで見た桜、誰かと一緒に見た桜。
そのどれも、子どもは知らない。

子どもが桜の先に見ているものは、私には見えない。単純に、きれいだと思う景色を切り取っているだけなのか、その先に何かを、誰かを思っているのか、私にはわからない。
親子でも、お互い知らない景色を見ているんだと思う。

夜のお出かけに気持ちが開放されたのか、子どもが昨日あった嫌な出来事を話してくれた。
でももう誤解が解けて解決したこと、相手が謝ってくれてスッキリした、と。
そんなことがあったと、昨日の子どもの様子からはまったく気づかなかった。

やっぱり親子でも見えないことだらけ。
私が子どもに話さないことがあるように、子どもも私に話してないことがいろいろあるのだろう。

大人になったと思う。
さみしいけれど、大事なこと。

目的のカフェは、なんと閉店時間を迎えていた。
桜の時期は営業時間を延長する予定、と聞いていたのに。
シャッターの降りたしんとした店の前で、ゴメン、閉まっちゃってると言ったら、おなかすいたと弱々しく言う。
小さい子どもみたい、とおかしくなり、でも早く何か食べさせないと、という気持ちになった。

カフェの予定がファミレスになったけれど、大喜びでメニューを広げる。
もう桜のこと、忘れているみたいだった。

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