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Live at Ftarri: Lenaを聴きながら

沼尾翔子『Live at Ftarri: Lena』を聴いている。連日の強い雨がせっかく開いた桜を落としてしまう気がして、恨めしい気持ちで窓の外を眺めていたが、雨音に混ざりながら届く音を聴いていたら、雨もまた自然の祝福のように思えてきた。

沼尾さんの歌には、耳を惹きつける確かな力がある。その力の根源は何であるか考えていた。ひとつの仮説は、音が音楽になるプロセスそのものを追体験しているから、というものだ。例えばギターが次の音を探り当てる、あるいは旋律が区切られ声が沈黙する、その一瞬の間。それが音楽が音楽であることを安定させず、音と音楽の境界面が現れる。それは技術的な拙さによる偶発的事象ではない、むしろ音楽に対する畏怖の念として表象されるものだ。音はおずおずと音楽になる。

音楽は音色から楽曲構造に至るまで各要素が洗練されているにも関わらず、(音楽が崩れてしまいそうな)フラジャイルなプリズムが乱反射して輝いている。それも奇を衒うところのない、歌というベーシックな構造の中で意識される点が、耳を惹きつける磁力の発生源ではないか。

ただし、それによって音楽は音となり崩れ落ちるのではない。むしろ、音楽が音により緻密に織り上げられたものであるということを認識するのだ。そうして音が音楽になる瞬間に立ち会うことになる。それは蝶の羽化を目の当たりにすることに似ている。ゆっくり広がる羽の美しさだけでなく、そのプロセスそのものに息を呑むことになる。聴き手は歌を物理的音響現象として認識するだけでなく、音楽に対する畏怖と祈りに対しても耳を澄ませるのだ。

『Live at Ftarri — Lena』はこちらからお聴きいただけます


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