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物語

就職サービスを展開している関係もあって、「仕事を決める」という決断を、みんながどのように考えていっているのか、つぶさに観察している。それはややもすると、人はどう生きるべきなのかといった形而上学的な話にもつながったりして、多かれ少なかれ「自分探し」が発生してしまう。どういった物語を綴ってきたのか、またそれをどう伝えるべきなのか、悩みこんでしまう学生も多い。あるコンサルに内定した学生は、シナリオライティングを勉強して、いかに語るかを考えてから選考に臨んだらしい。きわめて戦略的な手法である。真っ白な将来キャンバスを前に絶望するのではなく、まず絵の描き方から学ぼうというスタンスで、これは1つの理であると思う。

採用する企業側にも、さまざまな物語がある。日本には企業が400万近くあり(四国の総人口と同じくらい)、1社1社、社会に向けて役割を果たしている。それは、地域に美味しいご飯を提供することかもしれないし、住みやすい家を作ることかもしれない。発展途上国に発電所をつくることかもしれないし、最も電気効率の良い半導体を作ることかもしれない。難病を治療する薬品を開発することかもしれないし、交通の仕組みを変える自動運転車を作ることかもしれない。人の育成だって、1つの物語だ。職人がいてお弟子さんのいる会社もあれば、研究者が多く集まって、日夜互いに研鑽していく会社もある。売れた金額だけで評価される、セールスパーソンがしのぎを削る会社もあれば、いち早く特ダネをつかもうと、報道記者たちが切磋琢磨し合う場もある。どの物語もとても面白いと思うんだけど、身体は2つないため、どれか選ばなければいけない。難儀なことだ。

企業以外にも、特定の物語をもつ空間がある。たとえば旧帝国大学であれば、そもそもは官僚や学者を育てる機関として発展した。慶応大学は財界に多くの人材を輩出しているが、民間、特に金融から国を支えるという意識は強いのではないかと思う。このような環境の根底に流れる物語に、知らず知らず影響を受けてしまうことは少なくない。また家族も、物語を強いる存在だ。身近な兄弟姉妹の存在によって、働き方の好みがなんとなく決まってしまうこともあるし、両親も自らの物語を投影してくる。教師としても、反面教師としても、自らの人生シナリオへの影響は大きい。

1日に与えられる時間は、みんな平等に24時間。なかなか欲張れないのが人生である。歩むことができなかった物語は、小説や映画で疑似体験しつつ、いまある物語を輝かせていきたいものだ。

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