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謙譲の美徳

人間は幸せを求めて生きる生き物だ。その幸せは遠い未来にあるものではない。日々の何気ない日常生活・活動のなかにある。「あぁ、今私は幸せだなぁ」と、ことある毎に思うことが幸せなのだと思う。
その積み重ねがあって、棺を覆う間際、走馬灯のように人生を振り返った際、「私は充実した人生を生きたな。幸せな人生だったな」と思いを深くするのではないだろうか。

その幸せのベースにあるものは、きっとその人が生涯に亙りつくりあげた地位でも財産でもないだろうと思う。
私は、「幸せのベースにあるものは、その人がつくりあげた人と人との関係、いわゆる"人間関係"という温かい心の交流の積み重ねではないだろうか」と思うのだ。
その温かい人間関係が、"人が幸せに生きる土台"をつくってくれる。

私は、"自分のためは人のため、人のためは自分のため"だといつも思っている。
まず一番に、自分のことを考える。「私は何のために生まれてきたのか。何を成すために生まれてきたのか」という思索を、日々の活動のなかにおいて、深く追求(追究)することだ。
そうすれば、そのためには、"人のために生きる"ことが自分が幸せな心になることであり、それが皆んなが幸せになることなのだと、少しずつ、無理なく自然と分かってくる。
だから、理想は、全ての人間関係を軋轢(あつれき)のないものにしていく努力をしなければならないと思うのだ。そうすれば、人は幸せになることができる。

人間には、プライドや意地や存念などがあって、それに拘って生きているところがある。そして、それはピンからキリまである。
私が銀行を中途退職したのも、今から思い返せば狭量のその部類のものだったのだと思う。その時はそうではないと思っているのだが、後から振り返るとそう思う。特に、若い血気盛んな時は、それが"筋を曲げない人間だ"と、"目指す理想の人間だ"と思う。思い込む。
私たちは人と人との間で生きている人間なのに、そのことを忘れて自分だけが真っ直ぐに生きているのだと錯覚してしまう。皆んな一所懸命に生きているのに、自分が一番だと思ってしまう。

お互いがそう思うと、間々、人と人の間に軋轢(あつれき、friction、conflict)が生じることがある。
(意味のない)プライドがあるせいだ。人に対するヤッカミがあるせいだ。俺が俺がという"我(が)"があるせいだ。
私は若い時はそうだった。それが男だと、それが人間の生きる道だと、筋を曲げない生き方はこうなんだと、(今になって思えば、それは錯覚だと思う)、森の石松になるのだ。天下を取るのは決して森の石松ではない。清水の次郎長だ。森の石松は清水の次郎長の手足にしか過ぎないのに、天下を取った気分で突っ張って生きる。まさに"若気の至り"だ。

成らぬ堪忍、するが堪忍

稀に、成らぬ堪忍はあるだろう。そんな時は、そう思ったなら、堪忍袋の緒を切ったらいい。それが真の人間と言うものだ。
しかし、この"成らぬ堪忍"のほとんどは、成る堪忍なのではないか。そうだとすれば、堪忍袋の緒を切ってはいけない。きつく結んで、決して切ってはいけないと思う。グッと堪忍することだ。人間ができれば、その堪忍は自然とできる。当たり前にできる。グッと気張ることはない。私は、そのことを今になってようやく分かってきた。

ちょっとこちらが引く。そして、相手が引く。それはお互いの立場に思いを致すことで、その軋轢は生じなくなる。何でもないことだ。

昨日、お世話になっている銀行の理事長を訪問して、そのことを強く実感した。

「相手の立場ならそんなこともあるだろう」と一歩引く余裕を持つことだ。「自分の役目は人のために何をすることなのか」と、ことあるごとに自分に与えられた人生のミッションに思いを致すを致すことが大切なのだ。

私は、「こちらも若気の至りでした」という。理事長は、「私たちの役割や相手の立場に思いを致して接することをしていなかったのではないか」と返す。

そして、理事長とお別れして、これが『謙譲の美徳』なんだなと、トップはこうあるべきだなと、なぜかホッとした温かい心になって帰ってきた。

人間関係は合わせ鏡のようなものだ。こちらの思いがあちらにそのまま映るのだ。
私は71歳の馬齢を重ねてきたが、"ちょっとは成長した"なと、自らの成長に自分を褒めたくなった。

愚者の私でも、経験を積むことで賢者に近づくのだ。長生きはするものだ。長生きは人を成長させる。人を許すことができるようになる。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

[謙譲の美徳]
謙譲の美徳とは、自分自身を過大評価せず、他人に対して敬意や礼儀をもって接することを意味する美徳の一つです。つまり、自分自身の能力や才能に対して適切な評価をし、他人を尊重することが重要であるとされます。

謙譲の美徳を持つ人は、自分の立場や力量に自信を持ちながらも、他人に対して謙虚であることができます。また、自分自身の価値を過大評価せず、他人の意見や考え方を尊重することで、コミュニケーションを円滑にし、信頼関係を築くことができます。

謙譲の美徳は、個人的な行動だけでなく、組織や社会全体においても大切な価値観です。組織や社会において、自分自身の意見や利益を押し付けることなく、他人の意見や利益を尊重し、協調性を持って行動することが、より良い結果を生み出すために必要不可欠です。

つまり、「謙譲の美徳」とは、自分自身と他人に対して適切な評価をし、他人を尊重し、協調的に行動することが重要であるとされる美徳の一つです。このような価値観を持つことで、より良い人間関係や社会を築くことができるとされます。

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