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金沢大学附属高校22回生のメールアドレスを整備する

私は昭和46年(1971年)3月に金沢大学附属高校を卒業した。もう52年前のことだ。
今は、高校は1学年が120名前後。1クラス40名の3クラスだが、私たちの頃は、1クラス50名の3クラスだった。
出身は金沢出身が中心だが、加賀・能登、富山、福井の北陸三県の他、長野や東京から来た生徒もいた。石川県随一の進学校だ。  

私たち154名の同期の内、女子は31名。5人に1人(今は、男女半々)が女子だった。
進学校とは思えない、和気藹々な雰囲気で、自由に溢れた高校だった。

[金沢大学附属高校 校歌]
(作詞:室生犀星)

  1. 山をあふがぬ 日もなきは
    山の奥處(おくか)に きびしさの
    極まりてゆく そらのいろ
    母校をつつみ 白妙(しろたえ)に

  2. われらの若さを とどめゆく
    市街(まち)の北なる あら海は
    しらなみ立てて けぶるかな
    窓によりそふ 友や我

  3. 學びて去らば ふり顧れ
    學び来たらば 不変の自然
    野田のみちみち 謙虚の
    わかきわれらは 歌ふかな

校歌は、室生犀星の作詞だ。私が高校生のおりも教頭先生をされていた川西弘晃先生が、犀星に作詞をお願いされた。
川西先生は、その時の思い出を、『金大付高新聞』(第94号)開校20周年記念の特集「はたちの付高」で次のように語っていらっしゃる。

東京文京区駒込のお宅に犀星先生を尋ねたのは昭和27年晩秋の一日であった。
生垣に囲まれた先生のお宅、門を入ると芝生が美しく、その中に飛び石伝いの道が通じている。その道が自然と曲って玄関へ出た。木造和風平屋建ての可成り年代を経た家である。
かねてご連絡申し上げておいた訪問であったので、来意を告げると直ちに通された。部屋の中程には四角な炉が切られ、鉄瓶から静かに湯気が立っている。襖と紙障子に囲まれてガラスが全然使われていない。明治の住居に返ったような静けさである。
数分後襖を開けて出てこられた先生は、和服をきちんと着こなされているが、丸刈りの頭で、農村育ちの私には田舎の村長さんに相似たようで親近感を覚えた。
話題が金沢に入ると、先生の話ぶりはとつとつとではあるがしばし望郷の念にかられておられたようである。
やがて私は、学校の性格と所在を申し上げ、厳しい真理探求の態度、あたたかい友情と謙虚な気持ち、師第の間の信頼感等を織り込んだ校歌の作詞についてお願いした。
先生は校歌は純文学ではないのでむつかしいのだ、と言われたが、2ヶ月の期限を切って快く承諾して頂くことができた。

昭和28年(1953)の年が開けてまもなく、犀星から校歌の原稿が届けられた。
詞に「疑問なり、希望なりあったら申し越されたい」とのことであった。
川西は「謙虚」は音読したら字足らずになるのであるがどう読めばよいのかという質問を折り返した。

学びて去らばは、卒業の意味でわすれないように思ひだすよう。学び来たらばは、入学、『不変の自然』自然も変わらないといふ意味を入学者に加へて詠んだもの。とくに不変の自然といふ硬い文字をえらんだのは、いくらか額ぶち的な役割です。野田のみちみち謙虚の、は、けんきょですが、やはりさういふ硬さが必要な気がしたのです。この2文字は私にも不本意なものですが、これは適当にお考へになってお示しを願へればそれに改訂してもよいのです。

1章 学校の所在、総則的な示訓、厳格と清浄
2章 海との関係、生徒の和平
3章 学びて去らば、及び次の『来たらば』の二行は教師から生徒への言葉。次の二行は登校の歌

これが犀星の回答の原文そのものである。なお、「謙虚」は改訂されなかったのは言うまでもない。

私たち同期は、昭和27年4月〜28年3月生まれ。現在は満70歳か71歳。

私は昨年、数え70歳で古稀の祝いとして、生前葬&出陣式を行なったが、同期会としても古稀を機に、金沢で同期会をしようという話があった。しかし、コロナ禍の真っ最中であり、中止を余儀なくされた。

先週、金沢の鶴山庄市さんからお電話があった。
「コロナ禍でできなかった同期会をやろうという話が金沢の同期の中で出ている。来秋に開催しようと思う。
そのため、名簿を整理しているが、同期のメールアドレスが虫食い状態で連絡が取れない人がたくさんいる。小林は関東で定期的に同期会をしていたので、同期のメールアドレスを分かっているのではないか。虫食いを埋めてほしい」と。

私も全てを把握しているわけではない。音信不通の人もいる。関東同期会に積極的に出てくる人はせいぜい20名強だ。
兎に角、出てくる人のみならず、出てこない人のメールアドレスも分かってはいる。

来年の同期会は、これが"最後の全体同期会"になるやもしれず。そう思って参加する人もいるだろう。

兎に角、鶴山さんには、虫食いの同期名簿を送ってくれるようにお願いした。
そして、今日は早暁からその穴埋めをして、早速、金沢の幹事にメールしたところだ。

改めて、154人の名簿リストを見て、感慨は一入だ。
もう同期で6人が鬼籍に入っている。男子ばかりだ。その比率は4%弱。平均より高いのか低いのか。

死因は癌もあれば、事故もある。自死もある。6人の中には医者が3人。"医者の不養生"なのだろうか。

古稀ともなれば、昔は、"古来稀なる"歳である。
この歳にもなると、世間一般には、心身一如、"古稀"らしい老人もいる。
しかし、これも"古来稀なる"ということだろう、まだまだ元気溌剌、これからが青春という、私のような暴走老人も稀にはいる。
果たして、高校の同期の皆んなはどうだろうか。

そんなことを考える時、やはり、私は古稀を機に"生前葬&出陣式"を行なって良かったなと心からそう思う。
特に、私はその戒名のように、陽のエネルギーを持った心清き心温かい人たちが大勢私の周りに集まってきてくださり、私にたくさんのことをしてほしいとお願いされることが、心の若さのエネルギーになっている。そのことで、上り坂の人生を歩くことができている。
すなわち、皆さんのおかげさまで、心の若さを維持できて、その流れで、身体のメンテナンスに一層身が入るという"好循環"になっているのだ。

私のように、20代の若者たちと対等な気持ちで仕事をしている人は珍しいのではないか。
私は、年の功で若者たちに貢献できることがあるから、彼らも対等に付き合ってくれるのだ。

勿論、私はオールラウンダーではない凸凹人間だ。だから、若者たちに、私の凹んだところをカバーしてもらうことは多い。私は、そのお返しに、彼らに、彼らができないことを提供するのだ。そうでなければ、若者と付き合うことはできない。
そして、その矜持を持つことができなくなった時、マッカーサーが日本を去る時に言ったという「老兵は死なず、単に消え去るのみ」と同じ思いで、私は彼らから去っていくだろう。
それはいつだろうか。あと30年後くらいになるように、それまでは、"元気溌剌 オロナミンC"と行きたいものだ。

来秋の同期会が待ち遠しい。
それまでに、石川県の地域創生サポートの端緒が見えてくるところまで持って行きたいと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)




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