東浩紀の『訂正する力』を読んだ。

東浩紀の『訂正する力』を読んだ。直前に刊行された『訂正可能性の哲学』も読んでいたので実践編としても読めたが、この二冊の関係性は「単純」ではなかった。

『訂正可能性の哲学』は内容の難易度にも関わらず明晰な文章で予備知識が無くても読み通すことが可能である。いつものことではあるが、内容の高度さを損なうことなく「読む」ことができる文章を書く能力は日本語圏では東浩紀が突出している。

「訂正」という語彙は「郵便的」や「誤配」などに連なる東浩紀の著作に流れる通奏低音である。

『訂正可能性の哲学』は「脱構築」の実践作となっている。東浩紀の著作が内在的に批判されることが少ないのには理由がある。
友と敵を選別して「闘う」ことが存在理由になってしました人にとって東浩紀の著作は鵺のように曖昧にみえるようだ。
二項対立に新たな「第三の道」を提示するのではなく「第三の場」を介入させる方法に対応できる言説を紡ぐことができないようなのだ。
東浩紀は二項対立を止揚ではなく「脱構築」することで潰し合いを回避する。そして友と敵の峻別を避けることを著作を含む「現場」で実践してきた。
その哲学書としての到達点が『訂正可能性の哲学』である。

そして『訂正する力』だ。『訂正可能性の哲学』を理解するための副読本を予想していたが違った。これは「決別宣言」だ。
東浩紀の著作に反論できない人は「人格」を批判の対象にした。
『訂正する力』は挑発である。材料は渡したぞと主張している。
諦念と怒りと苦笑。位相が変わった。