火野葦平の戦後15年

火野葦平の小説が戦意高揚に資した事は事実であろう。公職追放に問われても致し方なかった。

しかし何故、自死せねばならなかったのか。実家の稼業も厳つい容貌も精神的な頑健さを想定させてしまう。しかし、幼少の頃から文学少年でありながら屈強な男に囲まれて育ったことは必ずしも文筆活動の妨げではなく寧ろ「人間観」に幅を持たせてくれたであろう。一気呵成に書き上げた『糞尿譚』を一読すればそれは明らかである。
兵隊シリーズも軍部の広報活動故の「プロパガンダ」と見做し文学的な意義を等閑に付すのは不当であると思う。因みに公職追放の科に兵隊三部作は含まれていない。昭和16年12月8日以降の作品が挙げられている。このような「厳密さ」に対して頭では「当然」のことだと理解しても私の「魂」は拒絶反応を起こす。
善意ではなく戯けた「理知」が地獄への道には相応しい。

戦後、手のひらを返した「読者」は欺かれた被害者なのだろうか。
「一夜にして価値観が転倒して」葦平に筆を断つことを慫慂する人もいたようだが、公職追放が解除された後に再再度火野葦平は筆を取った。
言い訳がましい言動はなかったと思う。保田與重郎も田邊元も戦意を煽った。命を鴻毛に例え、戦争の大義を掲げ世界史的な意義を説いた。
「理知」は嫉妬の対象ではない。狡猾な振る舞いを「理知」と自認することの誤認に居直る醜さを素通りできる厚顔さが「ムカつく」のである。

戦地に応召される前に葦平は小説家の夢を断念して稼業に進む道を選んでいる。勿論、葦平が積極的に望んだ道ではない。
しかし、やむ無しと決めたからには一意専心である。
それが伍長として部下の命を預かる身分になり前線に応召される出立前に書き上げた『糞尿譚』を友に託して。
そして戦地に第6回芥川賞受賞の知らせるが齎される。発表は昭和13年1月である。
利用されたのかもしれない。その後、報道部に転属される。葦平は前線から離れることを潔しとしなかったため転属を拒み続けたのだが。

軍にも菊池寛にも各自の思惑があったのは確かだが葦平にはそれを忖度可能な洞察力があった。もし、単なる「文弱の徒」であったら何か違っていたのだろうか。自死の動機は遺された者には「謎」の部分が残るのは必定である。
そして私は勝手に「河童の川流れ」は溺れたのではなく自死であることを忘却せぬよう胸に刻み込む決意を新たにする。