何故生きるのか

死ではなく何故生なのか。

生きる理由が分からないのなら、死ぬ理由も皆目見当がつかない。

人生を放棄したくなる過酷さの中、最後の一歩を踏み出さず引き返した理由は恐怖心だけではなかったはずだ。
救いだと思い、決意しても細胞が生の継続を望むからだ。
糊口をしのぐために切り捨てたモノが多すぎて、それらに復讐される。

正義が多数決で決まる納まりの悪い社会への違和感を自ら退却することで曖昧にしたのは悪循環への入口だ。
個人主義は指針を失うこと。同じ結論に至っても知識量は無視されてしまう。
「確信犯」はいったい何を確信したのだろうか。思い込みに過ぎない可能性を考慮できない「知性」は名指すことのできない迷宮である。

「超越性」を想定しないと言葉に価値を与えることはできない。

損得がすべてを支配する思考は勝ちと負けを価値に置き換えて平原を滑走する演者に堕す。

ひと息つく時、背後から頭蓋を吹き飛ばされる。不意討ちを卑怯と思うなら勝ち残ることはできないから。ルッキズムは美意識の逆回転の走馬灯