中上健次の芥川賞受賞作『岬』を読んで考えたこと(1-1)

1976年中上健次は『岬』で戦後生まれとしては初めての芥川賞を受賞した。既に三度候補作にはあがっていたがいずれも受賞を逃している。それ故喜びも一入で受賞後の一年間は周囲も巻き込んでの狂騒状態が続いた。それほどまで『岬』は渾身の作品であったのだ。

『岬』はこの後『枯木灘』『地の果て至上の時』と続くことになる「秋幸三部作」の一作目である。それまでも故郷の新宮市と縁戚に関する小説は書いてきているが『岬』は作家として引き返せないラインを超えた覚悟の一作である。

『岬』の叙述は三人称客観視点である。主人公は中上健次自身がモデルの「秋幸」であるが作中では「彼」と表記されている。他の人物は「姉」「母」など、「彼」の視点からの関係性で表記されている。
「光子」「芳子」「弦叔父」など名前や名前+関係性など複雑な人間関係を表す為の名称には苦心の跡が窺える。

活字の中では「親父」と「義父」は表記は別でも会話の中では「トウサン」と同音になる場面もある。
代名詞の問題は『岬』の段階では未分明な状態である。
芥川賞の選評でも文章の読み難さと人間関係が分かりづらいことは殆どの選考委員が言及している。小説世界の拡がりと代名詞の相克が模索されたのだろう。「秋幸三部作」の次作『枯木灘』では固有名が採用される。
この経緯について柄谷行人が『枯木灘』の連載一回目では『岬』と同様に代名詞が遣われていたが二回目以降は固有名が採用されているので「突然」気付いたのではないかと指摘している。

それでは『岬』の詳細を語る準備としてあらすじを記す。


あらすじ開始
主人公の「彼」(秋幸)は土方仕事に真面目に取り組む24歳。複雑な縁戚関係を背景に持つが土方仕事に集中することで余計な思考を振り払っている。
「彼」は異父姉の「姉」の夫である「親方」の元で土方をしている。
複雑な縁戚関係に起因する波風は度々生じているが目下「父さん」の法事をどこの家で執り行うかが「母」により問題視されている。「母」は「彼」と暮らす家で法事をすることにすると主張している。

ある日、同僚の土方である「安雄」が妻「光子」の兄である「古市」を刺殺する。「彼」には突然の出来事で原因が全く分からなかった。唐突に生じる事件の因果関係を辿ることは当事者にさへ明瞭ではないこともある。
「彼」は回想する。十二年前に「母」が「兄」や「姉」を残して父が「姉」や「兄」とは異なる「彼」だけを連れて家を出たこと。
「母」は「彼」を連れて新しい男と世帯を持ったこと。
「兄」は怒り「母」と「彼」を刃物や鉄斧を手にして家にやってきては殺すぞと脅した。
しかし、「母」は殺すなら殺せと「兄」を冷酷に突き放す。「兄」は絶望して首を吊り縊死た。
「彼」が十二歳「兄」は二十四歳だった。以来「兄」の自死は「彼」には解けない謎となっている。

法事は「母」の主張通り「母」と「彼」が暮らす家で行われることになった。「母」の子である「芳子」も夫と子供らを連れて名古屋から帰省する。「芳子」はこの家で法事を催すことには反対していたが「母」の意見に従った。
法事の当日は「姉」も病身をおして「母」の家にやってきた。そこに毎日「姉」から酒を工面してもらっている「弦叔父」が姿をみせ酒をせびる。

いつもは「親方」と「姉」の家にやってくるのだが、今夜は法事の席にやってきた。「弦叔父」は「父さん」の弟である。体調のすぐれない「姉」に代わって「彼」と「母」が対応する。
「母」は障害のある「弦叔父」も厳しく突き放す。
「彼」も「芳子」も「母」の割り切り方は冷酷過ぎるのではないかと思う。
「母」と「弦叔父」の口論を聞いた「姉」は錯乱状態に陥り暴れる。いつもは病弱で弱々しい「姉」が「殺せ」と怒鳴っている。「彼」と「芳子」は「姉」を「姉」の家に送っていく。この家で法事をするべきだったと後悔している。「父さん」が死に「兄」が自死した庭があるこの家で。
「姉」は死にたくないと怯えたり怒ったりと情緒は不安定だった。
「彼」の潜在していた怒りが血縁に対する憎悪として「母」を、そして「彼」に終始付きまとっていた男の親である「あの男」への復讐として溢れそうになる。

「あの男」は同じ時期に三人の女を妊娠させる。そのうちの一人が「母」であり産まれてきたのが「彼」だった。「彼」は大人の乱脈な繋がりを憎んだ。鬱屈を抱えた自分を土方という仕事で自然の一部に化し思考を拒絶していた。しかしそれも限界だった。「彼」は血縁を破壊すべく「あの男」に取って最も忌まわしい形での復讐を誓う。
「母」は妊娠六ヶ月の時に「あの男」が他の女も妊娠させていたことを知って激怒し刑期を終えて出所した「あの男」を断固突き放す。「母」は自らの手で「彼」を育てる決意を表明し「彼」も「親ではない」と「あの男」を拒絶した。

「姉」の精神不安定なままで幼児に返ったよう「母」に甘える。「母」は子供らに昔よく遊びに行った岬に出かけるように勧める。

岬では「兄」が生きていた頃の思い出を語りあう。「彼」が生まれたばかりの頃の話だった。自死した「兄」だけではなく「芳子」もそして「姉」も「母」に捨てられた思いは共通していた。

「芳子」一家が名古屋に帰ってから「姉」は突然走り出し踏切に飛び込んで自死を試みるも未遂に終わる。
「彼」は「母」と「あの男」に怒りの矛先を向けた。
「光子」が「姉」に会いにきた。若い男と一緒だった。「姉」は弱々しくなっていた。「姉」の手首には包帯が巻かれていた。

「あの男」の娘。「彼」の異母妹に当たる久美が新地で春を鬻いでいる噂を「彼」は知っていた。
「彼」はそれまでも新地を訪れていたが妹であるとの確信も証拠もない。しかし、最も酷い形で自ら汚濁に塗れ「母」にも「あの男」にも残酷な復讐を実行する。「彼」は異母妹と同衾した。
あらすじ終わり。


『岬』にはいくつか興味深い論点が浮上する。

①母を中心にした母系家族の強いる複雑性。

②母に固有の生者と死者の割り切り方。

③複雑な縁戚関係が「突発的な出来事」の因果関係を辿り難くしている。個人の無意識のように他者を介入しないと言語化を拒む。作者の中上健次がその役割を果たす為に小説を書いているように読める。言語化することの必要性が自己言及的に作用している。

④作者本人の優しさが「彼」秋幸を透過して言説化している箇所が存在する。

③は『岬』以降も論点になり得る。

次回は論点を具体的に深堀りしたいが任に耐えうる能力は心許ない。