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 ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「井戸茶碗」第33話

武将たちを虜にした、高麗からの贈物

皐月は新茶の季節に入り、なにかと茶の湯の話題も多くなるころ。今年は、新緑に彩られた京都国立博物館をはじめ、各地で歴史に残る茶の湯の銘品を集めた展覧会※が開催されています。

この抹茶を点てて飲む茶の湯は室町時代から始まり、僧侶から武士へと伝わりました。茶の銘柄をあてる「闘茶(とうちゃ)」や、茶道具の収集や鑑賞が始まり、戦国時代には茶会が禅の心にも通じる最高のもてなしとして、武将たちの間で数多く開かれました。

今回は、「一井戸二楽三唐津」と謳われ、信長や秀吉などの戦国武将たちを虜にした、朝鮮半島の高麗から渡来した「井戸茶碗」※と呼ばれる茶碗にまつわる話を紹介したいと思います。

井戸茶碗は、砂まじりの粗い土でろくろ跡が分かるほどにざっくりと形づくられ、淡い褐色の釉薬がかかった陶器。民芸運動の創始者として著名な柳宗悦の言葉を借りると、「そのへんの山の土を持ってきて、かまどの灰を釉薬にして手早く作った飯茶碗、雑器」。その茶碗になぜ武将たちが憑りつかれたのかは、「世にも簡単な茶碗、平凡極まる物。だがそれでよいのである。茶人たちの眼は甚だ正しい」、「茶器は茶人たちを母として生まれてきたのである」と評しています。

その井戸茶碗を名物の茶器とした茶人の一人に、安土桃山時代に活躍した織田信長がいました。金平糖を信長に献上した宣教師フロイスへ、茶会に使っていた干し柿を返礼したという話のように、下戸で無類の甘党だったのも、茶の湯を好む起因となったのかもしれません。

ともあれ、彼の茶の湯への情熱は「名物狩り」の行動をとらせ、京都や堺の商人たちから唐物名物と呼ばれた中国渡来の茶道具を、強制的に買い求めたり、献上させることになりました。また、そうした名物を茶会で使うだけではなく、戦などで功績を立てた家臣たちに贈り、茶の湯を行うことを許可した「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」※の制度として利用することもありました。

そのひとつに、戦功を立てた柴田勝家※に贈った「柴田井戸」があります。元々は信長の弟の信行に仕えていた勝家の能力を見抜き、自分の味方へと引き寄せるのに、この井戸茶碗を使ったともいわれています。

この井戸茶碗に惚れ込み、中でも大事にしていた「筒井筒(つついづつ)」※などを使って多くの茶会を開いたのが豊臣秀吉。そのころ利休が始めた、「一座平等」として数人でひと碗の濃茶を飲む「吸い茶」※の作法を、秀吉が家臣たちに積極的に取り入れたのは、統率を図るリーダーとしての恰好のスタイルと考えたからかもしれません。

この「吸い茶」は、天正14年(1586)に大坂城で、茶の湯を嗜み茶道具も収集している大友宗麟を招いた茶会を皮切りに始まったとされています。
ある時、名品の「筒井筒」で5人の客を相手に茶を点てました。招待客が大人数になると、秀吉は籤引きでひと碗を分け合うメンバーを決めさせましたが、「筒井筒」の噂を聞いて集まっていた5人の客は、我先に触れようと茶碗に飛びつきました。その結果、「筒井筒」は5つに割れてしまいました。青くなったのは、客と点前などの手伝いをしていた千利休と、武将で歌人でもあった細川幽斎です。

幽斎は「筒井筒 五つに割れし 井戸茶碗 咎をば誰か 負ひにけらしな」と、『伊勢物語』の中に出てくる和歌の替え歌で秀吉をとりなし、その怒りを鎮めます。

その歌には、〈5つに割れた陶片を越前・備中など国内の数々の地域になぞらえ、それらを制覇してきた秀吉の戦功を称えると同時に、そんな力を持った方だからこそ割れた茶碗ごときで誰を咎めるのか、咎めるのなら私(幽斎)を裁いてください〉というような意味が隠されていたのでした。

秀吉は、機転の利いた幽斎の意を理解し、その茶会を何事もなく終わらせたということです。割れた茶碗はきれいに接がれて、その後も使われ続けています。

茶聖といわれた利休の、一時は一番の理解者だった秀吉。利休が称した「侘茶」の世界を表現する素朴な井戸茶碗の良さも理解し、茶会でのもてなしに盛んに使用しましたが、天正15年(1587)の正月には大坂城に黄金の茶室を設え、“黄金の井戸茶碗”を登場させて周囲を驚かせました。

大広間に茶室を据えて賑やかな茶会を開いたという秀吉にとって、時にはルールを破り、人を驚かせたり楽しませることも、もてなしの極意といいたかったのかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※展覧会
●京都国立博物館
「茶の湯の道具 茶碗」
https://www.kyohaku.go.jp/jp/exhibitions/feature/b/chanoyu_2023/

●京都文化博物館
四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」
https://www.fashion-press.net/news/100585
 
※井戸茶碗
高麗茶碗の一つ。濁白色の粗い土に、果物のビワや卵色の淡い釉がかかっている素朴な陶器。本来は朝鮮では神様に供物を供える祭器で、飯や酒などを入れて使う民衆の日用雑器としてつくられていたが、「侘茶」の精神を備えた茶碗として見立てられて室町時代以降、茶人に愛用された。
その名称の由来については朝鮮で作られていた地名、茶碗の形が井戸のように深いという説、日本に最初に持ち帰ったのが井戸若狭守覚弘だったなど諸説ある。日本で最初に登場したのは天正6年(1578)ころ、堺の茶人の茶会と言われている。このほか喜左衛門井戸、細川井戸、加賀井戸などの名物井戸茶碗がある。
 
※「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」
茶の湯を政治的に利用した織田信長の政策。信長は特定の家臣に茶の湯を許可し、茶の湯は武家儀礼としての資格を備えることになった。こうした茶の湯の政治化が信長によって築かれ、豊臣秀吉によって推し進められたが、江戸時代に入ると、茶の湯の政治性は薄れた。
出典
https://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=101
 
 ※柴田勝家 [? - 1583] 
安土桃山時代の武将。はじめは織田信長の弟である信行に仕えていたが、のちに信長の家臣となり美濃・近江・伊勢など各地の統治に参加。信長から拝領した「柴田井戸」は、朝顔のように大きく開いた姿の美しい茶碗で、ところどころに飛んだ釉薬が青味がかっていることから「青井戸」とも呼ばれる。
 
※筒井筒
朝鮮で焼成された井戸茶碗の名物のひとつ。井戸茶碗の中でも大型で、高台の下部に見られる、梅の樹肌のように溜まったカイラギ(梅皮)とよぶ釉薬の表現が美しい。この茶碗は奈良の茶人が持っていたものを、安土桃山時代の武将筒井順慶が譲り受け、豊臣秀吉に献上したことで知られる。

※吸い茶
ひとつの大ぶりな茶碗に点てた濃茶を、数人で順番にすすりながら吸うように飲むことから、この呼び名がついた。
 


参考資料
『茶と美』(柳宗悦著 講談社学術文庫)
『井戸茶碗の謎』(申翰均著 バジリコ社)
『茶人 豊臣秀吉』(矢部良明著 角川選書)
『茶の湯案内シリーズ⑪ 史料による茶の湯の歴史(下)』
(熊倉功夫他著 主婦の友社)
『岩波グラフィックス23 陶磁の里- 高麗・李朝』(桑原史成著 岩波書店)
『高麗・李朝の陶磁』(太陽社編 大日本絵画巧芸美術社)



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