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余命14日間の彼女と青信号を渡れないボク *2話*

#創作大賞2023

 息を吸い込むたびに体の温度があがっていく。湿気の高い熱気が肌にまとわりついてきて、首に巻いたタオルで顔の汗を拭っても拭っても汗が噴き出してくる。この土地にあるのは、海、太陽、そして日本家屋が立ち並ぶ古い街並みだ。

 ここは結城郡、安寿海町。地元の人間はこの土地を、”あずみ”と呼ぶ。

 昔の海はよく荒れ狂う海で、嵐になると、海近くの土地を家ごと攫っては、海の底へと変えていった。災害が起きたら、受け入れるほか無かったこの地に、一人の女がやってきた。

 異国の衣を身に着け、左手には蓮の花を持つ”azumi”という女が、激しく荒れる海を見下ろす高台へと立った。村人たちは女を危ないと声を掛けたが女はやめずに、祈りだした。すると、たちまち嵐は止んで海は静かな姿へと戻ったという。
 村人たちは、女のおかげだと、高台まで女へ感謝を告げに集まった。だが、そこに女の姿はなかった。代わりにそこには、荘厳な輝きを放つ大きな観音像が聳え立っていた。村人たちはみな思った。女がこの世の肉体を捨て、観音の姿へとなり、守り神になったのだと。

 それから海を沈めた観音様を湛えるようになり、安全で幸せな海からは海の幸が豊富に取れるようになった。

 そんな逸話にちなみ、地名となったというのは、真かどうかは知らないが、地元の爺さん連中が、台風が近づくたびに語る腐り切った伝説であった。

 語った爺さんが、腹を裂いた鯵や鯖に魚醤塗りたくったまま、海岸沿いで、囲碁を打ってるせいで、いつも生臭くて、租の爺さんたちの話を鼻をつまみながら聞いていたから、余計に胡散臭いと感じていたのかも、わからない。

 ただこの街は、その逸話通りに、高台立つ真っ白な観音様像が立っている。

 今のところ、沿岸沿いにある我が家の周りに朝起きたら鮫が集っていた。なんてスリリングな目覚めは未だ経験した試しがなかったから。この地は守られてるってことは確かなのかも知れない。

 安寿海町の頭を眺めた。

 この街は、何年も前からこの土地を地盤にする政治家により、一大観光地にしようという動きがあった。オレンジ色の屋根と、白塗りの壁。海沿いの街の道は石畳みで作り、地中に電線を埋め込む。地中海の街並みを、そっくりそのまま東京から2時間程度で行けるレジャー地に造ろうとしている。

 オレンジ色の屋根の建物は他所からの移住者か、補助金で建物の外観だけをリニューアルした家のどちらかだ。現在は、オレンジ色と黒い屋根とが、オセロの盤の上で互いの勢力図を描いている。

 割合は山側3、海が7と、黒が優勢。海側は、オレンジが逆転している。

 今は3割程度のオレンジだが、潮風で腐食した木造家屋だらけのあずみなら、数十年後には灰色の屋根はすべて消え去って、オレンジの屋根でこの街は埋め尽くされる。そしてあずみは、海外の有名リゾートの模造品みたいな街になる。

 そんな中、僕の家はいまだに真っ黒な江戸瓦を載せた木造住宅だ。

 あの家の中で変わった唯一のものは、トイレの便座ぐらいで汲み取り式の所謂ぼっとん便所は健在だ。排泄物の饐えた臭いが立ち上る、ほの暗い筒の上に、洋式便座が乗っかっている。それも、おふくろが、どうにかあの頑固親父から勝ち取ったようなもので、トルネード洗浄やら、ウォシュレットやらが日本は、世界の最先端を進んでいるというトイレの最先端技術を伝えるニュースは、我が家では最も関係のない話題だった。

 まだまだ古ぼけたものが溢れる安寿海のなかで、親父が入院する丘の上平和病院だけは未来からやってきたような、最先端な建築物だった。

 青々とした芝を引いた広大な土地の中央建つ、地上3階建ての病院は、全面がガラス張り。青空に浮かぶ太陽が映された緩やかな流波型の建物は、僕らの棲む古くささが染み付いた土地とは、空気さえ違うものが流れている気がする。

 ここは全国から患者が集まる国内でも有数の医師が集まる総合病院で、セカンドオピニオンにも力を入れている。

 一年中、温暖な土地柄もあって、この病院で永眠を選択する患者も多いという。爺さん先生が一人でやっている昔ながらの個人医院とは、建物も設備もが違っているので、病院だというのに身構えてしまう。

 広い病院の駐車場を抜けて、中庭を突っ切ると、外科病棟がある建物へとたどり着いた、透明ガラスの自動ドアが開くと、むせかえるほどの消毒液の臭いがした。冷たい女の手のような柔らかな風が、充分に熱せられた肌を撫でたのでぶるっと震えてしまった。排気ガスと太陽の下から解放された僕は、病院独特の重い空気のなかで、ほんのひとときの癒しを得る。

 淡い桃色のナース服の看護師たちのうなじと、ナースシューズをキュッキュと鳴らす締まった足首。できれば堪能したかったが、急足で親父の病室を探した。

「あ、蒼央! こっちこっち!」

 緊急用の入口から廊下を進むとすぐに姉を見つけた。病院の中へと入ると、張り付いたシャツの外側が一気に冷やされてしまった。居心地悪い感情を抑えながら、大きく手を振って、こっちだと呼ぶ姉へと駆け寄る。

「親父は?」

「心筋梗塞だって、今カテーテル入れて手術受けてるとこ、手術の内容聞く?」

「あ、いや、グロそうだからいい…」

「グロって、自分の父親の手術の内容なのに?」

「無理。想像したら、吐く」

「うっわ。情けな!」

 姉に、気合を入れなおせとばかりに背中をバシンと勢いよく叩かれる。そんなことをされたとしても、苦手なものは苦手なのだ。

「あ、悪いんだけど、お父さんの着替えとか取りに行きたいから、お父さんに付き添ってくれない?」

「え? なんで」

「お母さん夜勤だし、あんた暇でしょ?」

「暇じゃねえよ! さ、収録だって……あ、ある……し……」

「はあ? まさか、もう帰るとか言わないよね?」

「死んでないなら、僕が、あずみにいる必要なくねえ?」

「ばか! ばか! ほんとあんたって! ばか!」

と姉に頭を叩かれた。

「いて、いて! マジ殴りすんなよ!」

「こうなったのも、半分あんたのせいもあるんだからね! 大学でて、就職もしないで、ユーチューバーになるなんて夢見て、遊び歩いてさ! どんだけお父さんに心労かけさせてんのよ! あんたみたいな薄情なやつにはこれぐらい殴ってもすまないんだから」

 ここで反論をしても100倍は返される。そうと分かっていて何か言い返す気にもなれずに、早々に降参する。

「はいはい。わーった。わーったから。付き添う! 付き添っとくからさぁー」

「……よろしい。じゃ、行ってくるから、あとよろしく」

「ふーい。ふう…。僕だって、別になんも考えてねえわけじゃねえっつうの」

 ———— そうだ。何も考えてないわけじゃない。
 僕はいつだって、今ある場所で、どうにか前に進もうと必死にもがいてる。今ある場所を守りたくて、必死に足掻いて、頑張った結果……、気づいたら、一人ぼっちになってしまっただけだ。

「はあ…。なんで上手くいかねえんだろ」

 ガシャーンと何かが倒れる音がした。振り返ると、廊下の先で、パジャマ姿の人が倒れている。患者だろう。倒れた点滴と腕が繋がれていた。

 何かの拍子で倒れたのか、倒したのか、ステンレスの点滴を設置するポールが床に横になっており、その肢を両手で掴んで患者が立ちあがろうとしていた。

「大丈夫ですか?」

 廊下を戻り、患者のそばへと駆け寄った。患者の身体から、肌に染み付いた病院の匂いのようなものがむっとした熱気となって、鼻を突いた。患者の腕を掴み、持ち上げてやる。軽い。パジャマの先から出る腕は骨と皮だけのようで、青い血管が浮き出るほどに白い肌の上には、紅茶のシミのようなものが地図を描いて散っていた。点滴とつながった透明のホースの先が赤く染まっている。

 血が逆流したのだろうか、大丈夫なのかと尋ねようとしたが、ニット帽を被った患者は頬骨がくっきりとした顔にほんの少し笑みを湛えて、頭を下げた。そして、また点滴のポールを押しながら、再び廊下を進んでいく。

 いくつだったのだろう? 老人なのかそれとも親父ぐらいの年齢なのか、それとももっと若かったのか、わからない。ただ死という影とずっと寄り添ってきた人なのだということだけは、はっきりと見てとれた。

 親父が倒れた時、どんな状況で倒れたのだろうか。もし僕の目の前で親父が倒れたなら、きっとパニックで何をしていいかなんて考えられずに慌てふためいていたはずだ。今の患者のような笑顔を向ける親父の未来を想像して、背筋がゾワッとする。

「大丈夫、あの親父が、簡単にくたばるわけねえ」

 そう、声に出して自分に言い聞かせた。




 手術を終えて病室に戻ってきた親父は、僕が知っている親父とは違ってた。T H E!海の街の男! といった無骨な肉体は影をひそめ、胸板は薄く、髪は白髪混じりで、頬はこけて痩せほそっている。たった数年見ないうちに、こうまで人は変わるのかと思い愕然とした。

 病院内の食堂で定食を食べた後、一服しようと、屋上へと出る。病院の屋上は待合室と、洗濯室がある。屋上へと出ると、突風に煽られた。

「うおー風つええな、さすが海の町、安寿海だわ」

 安寿海町と、南金町との境にある喜多美山から流れる冷たい風のなかに、風向きのせいか、海から少し離れたこの病院まで潮風が混じっている。屋上の床は、群蒼央色に近い深いブルーと鮮やかなライムグリーンに二等分され塗られている。その理由は、この病棟が外科患者の入院病棟であるからというせいかと考えた。

 芝生に転がることも、海で泳ぐことも制限されている患者にせめて屋上の床ぐらいは、明るくなければ心もどんよりしてしまう。

 きっと心が沈むような剥き出しのアスファルトでは無い理由は、そういった病院側の配慮ではないかと思った。それは定かではなかったが、きっと、この屋上へと昇ってきた人の心を解きほぐす何かがあるのだ。現に僕の心はほんの少しだけ解れていた。



 



 親父と最後に顔を合わせたのは大学4年の秋だ。
 6月の初めに本命だった企業は全滅。地方の就職先もあたったが弾かれた。在学中、ずっとYouTubeの配信生活に精を出していた僕と、学生中から就職を見据えて本命企業にご奉公してきた奴らとの差は歴然だった。

 ユーチューバーというカードは就職という荒波ではなんの価値も持たなかった。夏になっても就職が決まらず、僕は一つ決心をした。ユーチューバーとして芽が出るまでは、就職せずにユーチューバーを続けたい。そんな報告をした僕を、おやじはクマみたいな身体で襲い掛かってきた。

 ボコって音がしたのは、親父が放ったカウンターパンチを受けて、僕が吹っ飛ばされた先にあった襖だった。

「うお! まじかよ!」

 咄嗟に背をそらせて避けたので、顎をかすっただけで済んだ。定年間際だというのに親父のパンチは案外早い。

「きちんとくらえ!」

「はあ? そんな、マジパン(チ)食らえるか!」

 再び、拳が降り降ろされ、襖の表面に親父の拳の腱の凹凸ができたクレーターが産まれた。龍と、睨み合っている大口を開けた虎の金と墨黒の縞模様が、いくぶんか立体的になった気がする。

 庭で捥いだ桃を数個エプロンの上に抱えたままで、おふくろは悲鳴を上げた。

「きゃー!! 伸一さん、家を壊さんでください」

 親父はチラっと母親へ目だけを動かした。返事代わりに、勢いよく座布団の上に胡坐をかくと、両腕を組むと、ふんっと勢い良く鼻を鳴らした。

「おい、蒼央。おめえな、東京の大学に行かせるためにどれだけ、金がかかったか、わかってんのか? 渉を公立に入らせて、さらに、仕送りまでさせやがって」

「渉の高校と、僕が大学に進学したのは関係ねえだろ」

 このあたりの公立に中学のみんなはエスカレーターかの如く入学した。進学ができる私立は電車を乗り継いで1時間はかかる。渉は近くて友人関係も不自由のない公立を選んだ。ただそれだけのことだ。

 バコン! とまた壁を殴る音が響く。

「あっぶねえ!!」

「逃げるな!!」




 ざるに盛られた卵を割ると、チャッチャッチャと、卵を箸でかき混ぜる音が響いた。ちゃぶ台の上にガスコンロが置かれているところを見ると、今夜はすき焼きか何かだろう。親父は黄色い卵へしょうゆを入れて、ずずっと腹へ流し込んだ。

「お前は悔しくないのか?」

「何が悔しい? 僕の人生がどんなもんだろうと、親父には関係ないだろ」

 卵液が付いた箸を舐ぶる親父。

 僕も。と、ざるに入った卵に手をかけた。赤玉のざらざらとした感触。からが固くてなかなか割れない。割ると、丸々とした赤い黄身が出てきた。白身が透明で器の底に書かれた「吉」という文字が透けて読めた。

 ぐらぐらと煮えた鉄なべを親父の前のコンロに置きながら、僕とおやじをおふくろは睨んだ。

「二人とも、汚さんでくださいね」

 湯気をあげる硝子の蓋ごしに見える長く切られた蒼央ネギはまだ瑞々しいままだったので、仕方なく、置かれた白米の茶碗に卵をかけて飯を掻っ込んだ。

「みんな揃うまで待てねえのか、いじきたねえ」

 卵を飲んでたおやじが僕に唾を飛ばした。

「いつ、ひっくり返されるかわからねえからな、勿体ねえ」

「就職もできてねえ奴が、うちの家計の心配か?」

「仕送りも、大学の学費も、そのうち返すよ」

「返すだと? 就職もしねえで、東京から逃げ帰ってきたお前がどうやって返す?」

「だから、ユーチューバーとして有名になるから、それでいいじゃん」

「ユ、ユーチューバーだあ?そんなもんなれるか!」

 と親父は唾を飛ばした。親父がユーチューバーという職業へのイメージがどんなものか知っていようがなんだろうが、僕の全てを全否定したい気持ちは変わらないんだろう。

「視聴数1万人いるんだぜ。どうにかなるって」

「どうにかなるわけねえだろうが! いつまで学生気分でいるんだ? 少しは周りを見ろ!」

 「見えてるよ。見えてねえのは頭ガチガチのクソ親父の方じゃねえか! 古臭いもんばっか守って、変わろうとしてる僕を全然見てくれてねえだろうが」

「なんだと!」

 僕は父親に反論したことが頭にきた様子で、役所の作業服を脱ぎ捨てると、畳の上に焚き落とした。ベージュのジャケットの胸ポケットに刺さってた赤いボールペンが、ぐつぐつ音を立てるちゃぶ台の下に転がっていく。

 真っ白なワイシャツとは正反対に、泥で汚れた靴下の指先が、何度かイライラと畳の上で揺れ、そしてこちらへ向かってきた。

 慌てて襖を開けて奥の畳の部屋に逃げ込んだ。が、天井柄ぶら下がる豆電が僕の後頭部にゴツンと当たりしゃがみこんだ。ぐわんぐわんと大きく弧を描いて光が揺れる。その度に、障子におやじのシルエットが浮かんでは消えた。

 首の下へとぐっと手を突っ込まれ、呼吸が止まった。酸素を吸えずにもがく僕などお構いなしに空へと掲げる様に持ち上げておもむろに手を放した。とっさのことに尻もちをついた僕の胸ポケットから、黒いスマホを取り出すと、おもむろに二つに割った。パリンと薄いガラスが割れる音がして、僕の中で小さな爆弾がはじけ飛んだ。

「僕のスマホ! なにすんだ。こんの、くそおやじ」

 親父の襟元を力いっぱい握ると、おやじも負けじと僕のTシャツを裂くように引っ張りあげた。

「金払ってんのは僕だ」

「スマホ代は僕がバイト代で払ってるんだよ」

「お前の親は僕だ! だから壊して何が悪い!」

「そういうの! 立派な虐待だからな! 僕が訴えたら親父は捕まんだからな!」

「ふうん。口ばっか立派になったってわけか?」

 木の天井に映る豆電球の揺れる影を追いかけながら、いつから親父に抵抗するようになったのか考えた。答えを待たずに、再び胸ぐらをつかまれて息苦しくなる。また豆電球に頭がぶつかった。波打った火の玉は、ずっと灯りをつけていたから耳たぶが焼けそうなほど熱を持っていた。

 じりじりと痛む耳たぶに悲鳴を上げた僕に、おやじの手が緩んだ。けど、「おいこら」と、どすの効いた声色は健在だ。僕と親父が睨みあう間、今にも落っこちそうな熱い涙の玉が邪魔をした。

「就活しねえ。地元で就職する気もねえ。何もやりたいこともねえ。

 だったらお前この先どう生きてく? いつまでも、親のすねをかじれるとおもうな。

ユーチューバーだ? お前にそんな才能はねえ!」

「ああ、だったら、見せてやるよ! 僕が特別な人間だって見せてやる! 次帰ってくるときは、超有名人になった時だからな! さよなら!」

 そんな啖呵を切って、家を出た。

 あれから5年が経ち。僕は自分がどんな人間なのか、ようやくわかった。結局、僕は特別じゃなかった。何者にもなれなかった。僕がこれだけにはなりたくないと嘲笑ってた、“夢が敗れて実家に戻る奴”になってしまった。

「悔しいけど、親父の言う通りだったわ…、ちっくしょー!」  

 誰もいない屋上で、眩し過ぎる太陽に向けて僕は叫んだ。真っ白なリネンシーツが風に靡き、ざわざわと音を立てる。

くすくすくす。

 愉しげな少女の笑い声が響いた気がした。振り向くと、其処には誰も居なくて、窓ガラスに反射して映る太陽の光が、キラキラと鏡となったガラスに溶けているだけだった。

 再び、何処からか、くすくすと笑い声が再び聞こえる。もう一度今度は念入りにあたりを見回したが姿は見えない。在るのは緑の鉄の柵と風とぎらつく火の玉だけだ。

「くっそ! 太陽にも笑われてんのかよ!!」

 僕を認識している誰かに向かって叫んだ。
 またくすくすと、姿なき笑い声が聞こえた。

(3話へ)

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