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余命14日間の彼女と、青信号を渡れないボク *9話*

#創作大賞2023


 瞼を持ち上げると、無音の世界が広がっていた。透き通るか体から両手を伸ばした。長い触手が伸び、長い脚が自分の腕に絡みついてる。こすりつけた足から沢山の泡が生まれ空へと浮かんで僕の視界を消し去った。

 月は、僕の真上にあった。ここは、海の底だ。

 自分ががいる場所がわかると、滑ったゼリー状の幕に覆われた僕が何者なのかもわかった。海蛍だ。僕が掻いた水面には青白い光の筋が残ってた。自分が何者か気づいたら、何をすべきなのかもわかった。砂の中から出た僕はほんの少し沖と運ばれることを望んだ。僕の腹が弱弱しく光っている。腹が減っていた。何か食べなくちゃならなかった。

 そこから先に、飯があるからだ。今夜のディナーはなにがあるだろうか。烏賊の身体を少し齧ればそれで充分だ。食べたら、また少し浮上して潮に流されて、海に浮かぶ月と船でも眺めて、また砂の中へと潜って、次の夜を待つんだ。

 それで十分幸せだ。
 僕はそうやって一生生きていければいい。世界が変わっても、この海の底の景色が変わっても、僕にはしったことじゃない。大きな海に身を委ねていても、僕の世界は狭くて、代り映えがない。

 それでいいじゃないか。変化する世界を眺め、ただ息をして死ぬだけだ。僕を捕まえて、カラからに干上がらせて、擦りつぶして、誰かの役に立つという未来もあるというし。そんなのも、まあ、悪くない。それでいいじゃないか。それで十分じゃないか。

 パッと目を開けると、目の前に広がるのは、薄らと明るくなった海があった。僕の肩へと頭をもたげて眠るのは志歩ちゃんだ。ここ最近海に来ては二人で潮騒を聞きながら微睡む夜が続いていた。そして今夜も潮騒の音を聞きながら、2人ともいつのまにか、眠ってしまったらしい。

 「ん」と眠そうな声を上げた彼女が、僕の肩から頬を離す。

「おはよ」

 彼女に向かい、微笑んだ。彼女の頬に朝陽が当たり、逆光で彼女の顔が見えなくなる。オレンジ色の光の中で彼女の声だけが、こちらへと届く。

「蒼央さん、私、今夜この街を立とうと思います」





 キッチンから2人分の朝食を盆に載せて、自分の部屋へと戻る。志歩ちゃんと向かい合い、少し遅い朝食を突いた。先ほど彼女に言われた言葉の理由は、僕が姉とやり合った件が関わっているのではと思った。だとしたら誰かに聞かれる場所で、この話題を持ち出したくはない。

「誰かになんか言われた? だったらそんなの気にしなくていいよ。僕が、ここを出ていく。だから」

「違います。明日が最後の日だから」

「14日間が終わるから?」

 と尋ねると彼女はこくりと頷いた。彼女の口から告げられた現実が、押し寄せてくる。思いがけない言葉だった。最後の日まで一緒にいる。そう思っていたし、そう計画していた。なのに突然、彼女との時間はリミットを迎えてしまった。

「じゃあ、僕らはさよならか」

 彼女の口から告げられた現実が、押し寄せてくる。かのじょの誕生日までの余命14日間、その間だけ彼氏でいるという約束。それは口から出まかせの冗談で、本当だとは思っていなかった。こんなにあっさり終わりがやってくるとは。

「せめて最後の瞬間まで一緒にいられないの?」

「それは」

 と彼女は困ったように眉根にシワを作った。その前に帰ると言うことはもう終わらせたいってことか。淡く抱いた継続する関係へと進展する道が途絶えてしまった失望感を、押さえ込もうと熱い味噌汁をすすった。きゅうりのぬか漬けを箸で抓んで、齧る彼女と、マトモに視線がぶつかってしまった。

 慌てた素振りで顔を背け首筋まで赤く染める彼女の様子を、呆けて眺めた。だったら彼女が帰るまでの間。最高の彼氏でいたい。彼女の少女でいる時間の最後の記憶として残るような思い出を作るなら、何をすればいいだろう。

「あ、そうだ。水着って、持ってる?」

 ふと僕が出した質問に、真っ赤な顔を勢い良く向けた。首を左右に振り俯く。

「入るつもりなかったから」
「せっかく来たのに、勿体無いよ。泳ごうよ。一緒にさ」
「え? でも、今日はゴーストシャークが
「大丈夫! 海に行こう!」

 器を掴み飯をかっ込んだ。味噌汁を最後の一滴まで飲み干す。いり粉が、喉の奥にざらついた感触を残した。

「海斗に休み貰ってくるからさ、あ、そうだ。せっかくだし、見慣れた海じゃないとこ行こう。1時間後に駅に集合ね!」

 早口で捲し立てて、彼女が何かを言う前に立ち上がり、部屋を出た。



「休みたい? どの口が言ってんの? この大盛況っぷり見えないのかよ!」

 まだ早朝だというのに、水着姿の客で一階は大賑わいだった。厨房の中で、土下座する僕の前に仁王立ちの般若の姿の海斗。その隣で、僕らを気にする素振りもなく、いつも通りにキャベツのみじん切りをするユタさんがいる。

 明らかに休めない状況なのはわかっているけれど、

「この口がほざいてます」

「ふざけたこと言えないように、最高級の釣り糸で縫っちゃうよ?」

 と海斗がプンプンと怒り出す。観念して正直に吐露することにした。

「志歩ちゃん、今夜この町を去るんです。で、彼女と特別なデートをしようかと」

 と告げると、海斗がオーダー品のアイスコーヒーを乗せたトレイを、ステンレスの調理台の上へ乱暴に置いた。

「いいか、海斗。貴様は25、彼女は未成年、あーゆーおけーい?」

 海斗が、土下座をする僕の周りを、イラついた様子でうろうろと徘徊する。溜め息を噛み殺して事情を説明するために言葉を続ける。帰りたいと言った志歩ちゃんの気持ちは、まだ揺れている。そんなのは都合の良い解釈だけれど、返しちゃいけない気がした。

「元彼の元にでも戻るってことなのかな」

「そうなのか!」

 思いがけない言葉に頭の端をガツンと殴られた。

「まだ誕生日前なのに突然帰りたくなった。てことは元彼から連絡があった。もしくは、家に帰りたい事情ができたってことじゃね?」

「そ、それは……わからないだろ?」

 真っ直ぐな指摘に頭を抱えた。

「どーせ、よそもんは、この街を出たら終わり。

 元の生活に戻ってさ、俺らと過ごした一日なんか、あっという間に忘れちまう。ひと夏だけの思い出作りに来ただけ。結局、お嬢様の道楽ってやつだったわけだ」

 冷たい言葉が容赦なく僕の上に降り注ぐ。手をついた厨房の生ぬるい床の上に、汗が滴り落ち、石の色を鈍く光らせた。其の言葉に拳を握り締め、歯を食いしばる。

「道楽? 上等だよ。だったら残された時間だけでも、一生残る夏にする。忘れられないぐらいに、記憶に残る夏を、彼女に捧げてやるよ」

「……だからって、今日休むってのはさあ」

 と、海斗は渋る。包丁の音が突然鳴り止んだ。と同時に、ナイフを手にしたユタさんが、こちらへと近づいてくる。僕の顔の目の前にナイフを振り下ろした。

「ひいい!!」

「明日から1週間、皿洗い、ゴミ捨て、各部屋の清掃とルームメイク、野菜の皮むきとキャベツの千切り替わるっていうなら、休め」

「や、やります」

「ええー! 休ませちゃうのかよ」

 と海斗は、今度はユタさんに向かってスネ顔を披露している。そんな彼に向かいユタさんはいつも以上に冷たい表情を浮かべた。

「お前、あの子から100万もらったんだろ。だったらVIP扱いしろ」

 というなり、ナイフをシンクに放ると、歌口の扉を閉めて出ていってしまった。

「ちょ! ちょー待って! ユタまでどこいくんだって! とにかく俺は認めねえよ!」

 と、ガンとして意見を曲げようとしない海斗を見て、すんっと自分の中で何かが抜け落ちた。

「じゃあ、辞めるわ」

「ええ! 嘘だろ?」

 エプロンを脱いで店を出る。陽炎の上がる通りで、押し殺していた溜め息を吐き出した。たかが1人の少女だ。この夏をほんの少しだけ一緒に過ごしただけの関係だ。運命とかじゃない。ただ1人の少女の喜ぶ笑顔を、もう少しだけ見たいだけなんだ。

「蒼央!」とユタさんが僕の名前を遠くから呼ぶ声が聞こえた。

 振り返ると、ユタさんがチャリに大きなカゴを乗せて僕を追いかけてきた。

「な、なんですか」

「ほら」とチャリを降りると、竹で編まれた籠を差し出された。漁業許可の屋号が其の背に刻まれている。大きな籠を両手に抱えるユタさんに、尋ねる。

「なんですか? これにワカメでも入れて来いっていう命令ですか?」

「俺の家の漁場の籠だ。これがあれば漁師しか入れない漁場に入れるから。お前が知ってる穴場よりも、よっぽどVIPなデートになるだろ?」

「い、いいんですか?」

「うちの宿泊客に観光案内してやるんだろ? 金なら海斗から踏んだくるから、しっかり案内して来いよ」

 と、ユタさんが僕へとチャリの鍵を渡した。

「ユタさん。あんたっていい人だったんすね」

 ユタの思いがけない優しさに触れてしまい、思わず涙ぐんだ。

「あ、ちなみにその中に入ってる水着、お前の姉さんのだから、返しといて」

 と言われ、籠の中を漁ると、黒のビキニが入っている。

「はあ⁈  どーゆうことですか? 姉貴と、ユタさん、はあ??」

「ほら、さっさといけよ」

「あっ! 後できっちり説明してもらいますから! 絶対、絶対! 聞きますからね!」

 籠を背負い、自転車のペダルを踏み込んだ。ふとお礼を言い忘れていることを思い出して、振り返る。

「あ、ユタさん」

 間髪入れずに「水着姿を見て、鼻血出すなよ?」とユタさんが背を向けて手を振りあげた。

「ちげえだろ」

 などと笑いながらやさぐれた言葉を漏らした。





「お待たせしました」
 
 くるぶしまで隠れるグレイのウェットスーツ姿で、海の家の入り口へと彼女がやって来た。焼けた砂の上で、ちびっこに混じって城造りに勤しみつつも、ソワソワしていた僕としては、彼女のビキニ姿を拝めるのを、楽しみにしていたのだが…。

「ビキニ..ではないのか..」

 期待という風船が皺皺にしぼんだ。

「それじゃあ行こっか」

「どこですか?」

 彼女の質問に、わざとらしく咳払いをする。

「ようこそ志歩様、では参りましょうか、ゴーストシャークスペシャルツアーへ!」

 ラバー製の足袋、手袋、熊手などが入った籠の中に、僕のラッシュガードを放り込むと、彼女を後ろに腰掛けさせて自転車を押した。ユタさんと過去に来た記憶を頼りに漁場へと向かう。小型の船が並ぶ波止場のほとりを、真っ直ぐ突き進んだ。

 行き止まりまで進んでいくと、立ち入り禁止マークがくくりつけられた小さな鉄製の柵が立ちはだかる場所へと辿り着いた。束になった鍵の一つを差込み、錠前へと捩じ込む。

 鉄柵のゲートを開けて彼女を招き入れた。無人のなか荒い波が岩場を叩きつける鋭く尖った岩山を抜けて、クレーターのような穴が所々に空いた、真っ黒な岩肌の場所へとやってくる。

 夜になれば、ここは海の水が満たし覆い隠される場所で、海の底であるこの場所は人の手が触れられていない分、鋭利に尖り自然なままだ。

「足切るから、この足袋履いてね」

 比較的滑らかな足元へと案内し、足袋を履く。手の怪我防止用に厚手の手袋をはめてから、穴の開いた地面へと降り立った。

 足袋越しに足の裏を押す軽い痛みを感じながら、先へと進む。自撮り棒を持ったまま進む彼女は、まるですべての瞬間をスマホの中に撮りたいかのように、強く棒を握りしめたままで、一歩一歩進んでいる。その危うい彼女の足取りを見て、手を差し伸べる。

「危ないから、僕が撮影する」

 とカメラを渡すよう告げると、こちらに怒ったような必死な顔を向けた。

「私は、蒼央さんを撮りたいんです!」

 と、頬を膨らまして怒り出した。と、自撮り棒を胸に抱いて、頬を膨らました。仕方なく彼女の手から無理やり奪い取る。カメラの向きを自分の顔が映るように調整して、彼女に向かってわざとらしい程にニヤッと笑って見せた。

「これでいい? ほら、前を向いて」

 ようやく安心したのか、彼女は歩を進ませた。波が来ない岩の上へと籠を置く。彼女の手を掴んで大きく開いた穴の手前で立ち止まる。

 流れ込む潮で満たされ、深く抉れたその下に広がるのは、透き通る水の中を無防備に泳ぐ魚達の姿。この地に生息する赤や黄色の色取り取りな魚が群れを作り躍る。柔らかく漂うピンクのイソギンチャクや、珊瑚礁の世界に魅了されたのか、膝をついて真下に広がる世界に、彼女は釘付けになっていた。


「どう? 志歩ちゃん」

 彼女の名前を呼ぶと、嬉しそうな声を上げた。

「……すごい、海がある。って、変な言い方ですよね。よく絵画とかである海の底の世界っていうか。ダイバーや魚にしか見られない世界が、こんな近くで見られるなんて、感動です!」

 興奮した調子の彼女に、思わず顔がにやける。興奮した調子の彼女に、思わず顔がにやける。こんな場所があるのを知るのは、地元民だけの特権のようなものだ。今は観光客が多くなったせいもあり、漁師が牛耳る場所ぐらいでしか、こんな景色は見ることはできない。だからこそのスペシャルなツアーにもってこいなロケーションだ。

「潜ってみる?」
「潜る....ってこの下へ?」
「上から見るだけじゃ、つまらないでしょ?」

 僕が差し出した手を、彼女は無言で見つめた。
 戸惑った表情を向ける彼女へ優しく微笑みかける。

「潜り方教えてあげるよ」

 ほんの少し顎を引き、「うん」と、頷く。足先を恐る恐る浸す彼女よりも先に、大きく開いた穴の中へと入った。深さは10Mほどの壺のような形をした海の中にある洞穴だ。さほど間口は広くないので、岩肌に肌を傷つけないためにも、上下に移動するのがいいだろう。

 足元を恐る恐る浸らせる彼女より先に穴の中へと入った。ウエットスーツの浮力の御蔭で、首から上は水の上に出ている。足先を左右に動かして、上体を水面の上へと押し上げる。

 立ち泳ぎは初心者だという彼女の足元へラバーのフィンを履かせて、海の中へと入った。肩口まで身体が水面から浮かんでいることに、彼女は、

「わ! 凄い! 浮いてる!!」

 と無邪気に驚いている。そんな様子を微笑ましく眺めた。

「見てて」

 息をすばやく吸い込み、足で水を思いきり蹴って海の底へと向かう。深い場所まで一気に潜り、大きく育った鮑へと近づいた。腰から縄を巻き付けたノミを取り出して、丁寧に剥がしていく。ユタさんのノミは大分痩せていて薄かった。その分、鋼先が隙間にすっと入り、鮑を易しく岩肌から剥がしてくれる。

 岩肌に再び張り付こうとひだを伸ばす鮑を、腰網の中へと滑り込ませた。大ぶりの鮑と岩と岩の狭間で、ひっそりと佇む鋭利な棘を纏った_雲丹@ウニ_も2つほど入れる。じっくり時間をかけて浮上すると、なぜか彼女が泣きそうな表情で出迎えた。

「こんなにも長く潜られるんですね」
「此処で育ったからね、巣潜りは、小学生の時にはマスター済みだよ」
「こんなに長いこと待つなんて思ってなくて、何かあったのかと」
「志歩ちゃんは都会育ちなんだね、地元は東京とか?」

 顔を背け、無言になった意味に気づき、触れてはいけない内容だったことに気づいた。
「ほら見て! 鮑! デカイでしょ!!」

 話題を変えようと腰の網の口を開き彼女に見せる。ゆっくりと灰色の体がうねる姿を興味深げに見つめている。

「動いている鮑。初めて見ました」

「じゃあこれは?」

 掌の上で黒く長い棘の塊が捕まったことに対して、う雑多そうに動き続けている。

「雲丹!」

「さ、今度は志歩ちゃんがやってみよう」

 その言葉に彼女は目を丸くする。だがすぐに岩肌から水面を覗き込んだ。意外と彼女はこの深い水の底を見ても怖がらない。子供の頃の僕ですら、真っ暗な穴の中で蠢く生き物がいる穴へと飛び込むことへ恐怖を抱いたものだ。だが今の彼女は恐怖心より興味のほうが勝っているらしい。

「出来るますかね」
「出来るよ、諦めなければね、何でも出来る」

 僕が告げると、ほんの少し、彼女の瞳が潤んだように見えた。



 立ち泳ぎを練習した後、握り飯と漬物という簡易な昼食をとり、潜る練習へと入った。もう何度もトライしていたが、腰が浮いた後すぐに体を垂直にするのは案外難しいようで、何度も尻が残って浮いてしまう。太陽の日差しが柔らかな熱を落とし始めたころ、補助なしででも何度か潜ることに成功するようになった。後は深く潜るだけだ。

「次、深く潜ってごらん。身体が真下に垂直になったら、フィンを使って思いっきり水面を蹴るんだ。そうしたら、海の底へと近づけるから」

 ずっと水の中にいると、海水の冷えによるものか、彼女の顔色が優れない。今日一日たっぷり時間がある。焦る必要なんてないのだが、彼女は、休みもせずに何度も何度もトライする。

————タプン。
小さく水しぶきがあがり、水の中へ飲み込まれていく。


(10話へ)

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