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過去へ「平野工房創設の頃」

山梨から立川に戻って、しばらく何日かボーっとしていた。

友達や先輩と話すうちに、少しずつ元気も戻ってきていた。
仕事をしようと探し始めるが、なかなか簡単には無い。

ある日、郵便局の配達の仕事の面接に行ったがダメだった。
「接客、サービス業を経験してない人はダメです」と言われた。
僕の経歴は、学校での事ばかりである。

平野工房

その面接がダメだった日だった思う。
女将に「おとーさん、自営で何かできないの?」と言われた。

想像もしていない事だったが、そんな道もあるかもしれない。
できるとすれば何があるか?
彫刻作品で生計を立てる方法は、ほとんど可能性は無いだろう。
そしてその頃は、ほとんど彫刻を作っていない。
2001年にエントランスモニュメントを依頼され、クレッセント美しが丘に設置したのが最後かもしれない。

ちょうど気持も、生活と芸術を近づけたいと思っていた頃で、工芸の作品を中心として制作販売の工房を作れるかもしれないねと女将と話したのを覚えている。
そして工芸は僕の美術でのスタート位置である。

独立は、女将の方が積極的だったかもしれない。
山梨の一件から、僕をこのままでは終わらせたくない、再度リベンジさせたい。
の強気気分満載だった(^^)。そして「協力しても良いよ」と言ってくれた。

4月、1か月かけて
工房名を「平野工房」としてロゴデザインを決める。今も使っているロゴ。
パンフレット制作。「金属と木の創作工房」「創造的生活のススメ」などがキーワード。
僕が金属と木を使った、インテリア、リビング用品のデザインと制作。
女将がアクセサリーのデザインと制作。とする。

2006年5月「平野工房創設」

知っている限りの人に、ご挨拶とパンフレットを送った。

その年の9月に、初のデパート催事。八王子そごうで「日本の職人展」出展。
八王子そごうは今は閉店しているけどね。

僕は「職人」になった。小学校2年生からの夢だった。

錦町の工房

10月に立川市錦町に平野工房を構えた。

その物件の契約を不動産屋に行った日、女将は倒れた…。

救急車で搬送され病院へ、病名はくも膜下出血だった。
すぐに家族や親戚に連絡。
翌日手術。
先生から手術に先立ち説明を受ける。
「大変難しい手術です、手術が成功してもマヒが残るかもしれません…。」

女将はこの事を書かれるのは嫌だろう。
だが、一応事実に沿って現在まで行ってみたい。
許しておくれ。

長い手術だった、若い先生だった。
「なんとか手術は成功しました」
先生ありがとうー!
子供達3人は病院の廊下で、母の無事に声を上げて泣いた(お母さん思いや)。

麻酔から目が覚めて、検査があり。
先生から「マヒも無いようです」

奇跡はあるんだ!
身体が震えた。

工房への引越し

女将の入院中に錦町工房への引越し作業をした。
レンタカーを借りて、子供達3人と先輩の古森さん和佳夫人が手伝ってくれた。
自宅から道具、資材など運び込む。和佳ちゃんのお昼のおにぎり美味しかったな。
皆様、ありがとうございました。

そして11月の女将の立川無門庵ギャラリーでのグループ展を、僕が搬入展示代行。

女将は年内に、無事退院して戻ってきた。
そして、平野工房創業の年も終わった。

おおきに!

平野工房の立ち上げ、すごい話しばかりで、びっくりされたと思います。
心配もされたと思います、すいませんでした。

平野工房を立ち上げてデパートの催事場を中心に、そしてギャラリーの個展などでの展示販売が始まります。
僕の作ったものが、全然売れなくて売れるのは女将のジュエリーばっかり。
女将もちょっと協力のつもりが、どっぷり協力になり。
ますます苦労をかけるー。

次回は平野工房の制作と販売の日々を書いてみようかなぁーと思います。
もうかなり現在、ちょっと一息😁

この頃の世の中「2006年」

google先生、いつもすいませんねー。

2月のトリノオリンピックで、荒川静香がフィギュアで日本人初の金メダルをとったね。
記憶に新しい。(^^)

北朝鮮がテポドンの発射実験をしたり、地下核実験をしたり…。(._.)

草食系男子、肉食系男子。 女子力、女子会などの言葉が流行っていたみたい。
今でも女子〜は流行っとるね。(^^)

このテーマあと少し、続きます…😁

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