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「わからない」と言いたくない

長らくご無沙汰しております、親子丼です。
今年ももう半分終わりますね。
あっという間だ!

突然ですが、わからないって言うことは好きですか?私は好きじゃないです。

それは、私の父親が「わからない」と言わない人だったから。

小学生の時は、実家の店番があるので、両親揃って共に食事をすることは珍しかった。

鍵っ子なので、帰宅すると1人でラジオを流しながらおやつと宿題を済ませ(毎日地味に量があるのでサボると終わらない)、19時ごろに料理担当の父親が帰宅すると、

話したいことがたくさんあって、ごはんを作っている間によくキッチンで学校であったことを話し、食事中は父親が私の質問に答えてくれることが多かった。

夕飯時にニュースで流れている世界経済のことも、なぜ勉強しなくてはならないかも、愛とは何か、ということも。
いつも氷たっぷりの焼酎が入ったグラスを片手に、箸やコースター、いいちこのパック(スーパーで買える焼酎)を何かに見立てて、話してくれた。

父親なりの答えを、必ず持っていた。

だから私はわからないことがなかったし、答えが返ってくるからどんどん質問したし、答えのないものが嫌いだった。

自分で考えなくても答えがあるから、自分の考えを求められる道徳の授業(カトリック校なので聖書を基にした宗教なのだが)とか、人生経験が無さすぎてそんなん知らんわ!って感じで、考えることが嫌いだった。

人と向き合うのも同じで、なんだか答えのない生身のものが気持ち悪いし、1人っ子ゆえ喧嘩とか慣れてないしそれで傷つくのも怖いから、学級委員とか生徒会とか、対大人数のような立ち位置がすごく安心できた。

で、今に至る。
高校生まで「自分で考える」のが嫌いだった私も、それなりに色んな人に出会い、色んな知識を得て、ようやく考えることができるようになった。

最近は失恋したり、ライターという職業を目指して1人の人を徹底的にインタビューしてみたり、自分とは全く違う人種だけど、妙に好奇心がそそられる人との出会いがあって、人と向き合うことを頑張っているのだが。

ああ、本当にめんどくさいぞ!

出会ってすぐの人ならば、その人のnoteやインスタを片っ端から読み漁り、

なぜこの人は今の職業に夢中なのか?
なぜこんなに性について悩まなければならないのか?
なぜこれほどまでに葛藤しているのか?

みたいな感じで?をつくり、自分の中でじっくり考えたり。

あれやこれや多角的に質問してじっくり話を聴いたり。表情を凝視したり。

やめたいなーと思う反面、好奇心が勝ってとことん追求したくなる自分がいる。

やることが多すぎるし、努力の末自分なりに答えを出したところで、それが真実とは限らない。
答えを伝えたところで、相手が傷つくかもしれない。

でも幸い、私が最近出会う人は、捻くれてないまっすぐな人が多い。

なので、そのレポートのような私の答えを全力で受け止めてくれ、感謝してくれたり、中には心を開いてくれる人までいる。

私がその人についてじっくり向き合ったから、その人も私に向き合うべきだとか、向き合って相手のことを好きになったからといって親友とか恋人にさせてくれ、とかそういうわけではないことにも気づいた。

向き合いたいと思う人は、その人の考え方とか物の向き合い方に惹かれる人が多くて、友達とか上司とか恋人とかカテゴリーではなく、人として好きになるので、何してくれても、恋愛は、仕事はそんな風に頑張るんだね。

みたいな感じになる。なんか不思議だ。

人と向き合って答えを出す過程は、自分の好奇心や視点に向き合う時間にもなって、結果として自分のためになるという。
結局自分のための学びなのだと思う。

好奇心や知性は、今あるものを疑うためにあって、人の痛みや心を知るためのものだと私は信じたい。 

ちなみに私の父親もよく疑っていた。
私に勉強を教える時も
「引っ掛け問題だと思って疑え!」
「答えが合ってるか疑え!テストは絶対検算しろ!」 
とうるさかった。
今思えばそれが知性になるのかもなと、ようやく思い始めた。

かつて天動説を命懸けで疑った人がいたように。
かつて身分制度を疑って戦った人がいたように。

本当に今ある常識が真実なのか。    
本当に今ある正解が幸せなのか。

先人の知恵を学び、今の社会を学び、今を生きる私だからこそ疑うことが、何かの未来に繋がるかことを信じたいし、

今あるものを疑って疑って、
それに意味を見出せなかったり、新しい考えって保守派に否定されがちなんで(休学で経験済)自分が傷ついたり、もがいたり、否定されても。
負けられないなあって思う。
だって、先人たちは命懸けで新しい答えを見つけたのに、ちょっとやそっとバカにされたくらいで諦めてたら、やっぱなんか、今を生きる者として失礼かなって。
それに、後世に残そううんぬんではなく、信じたものに人生かけちゃう先人って生きてる!って感じでカッコいいなーって思うし、何より、その先に輝く何かをすっごく見てみたい。

自分なりに考え抜くことで、誰かの答えになったり、誰かに寄り添えたり、それが父親が娘に与えたもののように、無性の愛になったらいいなと思う。

てなわけで、私は今でもわからないと言うことが恥だと思っている。
それは考えてない証だから。 
賢くないのは、私の中でなんだかダサいのだ。せっかく脳みそくっついてるからさ。

正直人として好きになる人も、こんな違う人種に向き合って人生何の意味があるねん。
って思うこともあるけど、それが私の将来に繋がる、何の根拠もない予感がしていて、
今日も意味がある意味がないなどとひどく葛藤しながら、やっぱり自分の好奇心には嘘がつけなくて、人と向き合うのだろう。




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