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馬、弓、そしてチョンマゲの歴史

日本の馬はせいぜい体高140㎝だから、ポニーに属する。ヨーロッパも中国も軍馬は去勢しているが、日本の軍馬は去勢していないため、貧弱な体躯の割には馬力がある分よかったが、気性が荒く人を蹴ったり噛んだり、発情期には牝馬を求めて荒れ狂った。1579年、秀吉軍は、敵軍が放った数十頭の牝馬のため自軍の牡馬が追いかけて大混乱し敗北した。なお中国が遊牧民から去勢を学び宦官が誕生したのに対し、日本は去勢の文化を知らなかったために宦官が登場しなかった。
乗馬は特権階級の権利であり、義務であった。平民が乗馬を認められたのは明治になってからであり、逆に貴族は乗馬の心得は義務であった。藤原道長も行幸の際、悍馬を見事に乗りこなし人々から誉めそやされた。
騎兵が白兵で突撃するのは、中世に関する限りフィクションである。長篠の合戦の武田軍も騎馬隊などは編成できなかった。それどころか大将以外は馬から降りて槍をふるって戦った。

そもそも武士とは弓射の芸に秀でた「芸能人」から発生した。古語のイクサとは「強い弓」を指し、転じて射撃戦を指すようになった。静止した騎馬上からの射撃戦が古来の戦争の実像だった。接近戦以外で太刀は弓矢にかなわないのは「あたりまえ」である。
武士は「弓馬の士」とされ、騎乗から射撃するのが主であった。源平内乱期には武具が極めて発達したため、まず馬を射るのが主流となった。
抜刀戦が行われた中世後期でも、弓矢による遠隔の射撃戦が主流であった。鉄砲が登場した後でも、安価で暴発もなく、高度な鍛錬も必要なく雨中でも使用できる弓矢は重宝した。

チョンマゲ

武士は戦闘時においても烏帽子を被り、その上に兜をかぶったので、モトドリ(結った髪)が蒸れた。そこで額を剃り上げたのがチョンマゲの始まりというのが有力な説である。

参考文献

髙橋昌明『武士の日本史』(岩波新書)

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