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讃岐高松・丸亀の旅

展示会取材前日の4月4日、先乗りして讃岐高松と丸亀に乗り込んだゾ。

高松

朝7時半に博多駅を出発、岡山から特急で瀬戸大橋を渡り、午前中には四国高松に着いた。

昔は宇高連絡船で渡ったものがよう

実は私は小学校2年から4年まで高松に住んでいた。当時は岡山から宇野まで電車で、そこから高松築港まで連絡船で行っていたものじゃった。松本清張の小説みたい。今は瀬戸大橋で10分もすれば四国へ渡れる。

高松駅から徒歩数分で高松城に着く。こんな一人旅にやさしい観光地って、ほかにあるだろうか。

日本3大水城のひとつ

高松城は玉藻城とも言われていて、市民にとってはそちらのほうがなじみやすい。短歌で讃岐の枕詞は「玉藻よし」であるからにして、こう名付けられたのである。秀吉の配下の生駒親正が讃岐一国を与えられて築城した城で、城割は黒田如水とも細川忠興ともいわれている。

みての通り水城で、伊予の今治城、豊前の中津城とあわせて日本三大水城といわれている。中津城も黒田如水の城割であるが、今治城は近世城郭の祖といえる藤堂高虎の城割である。シンプルな今治城とは趣がだいぶ違うが、知り合いの情報では、玉藻城でも鯛が釣れるとか。今治も瀬戸内海のお魚が泳いでいるので、似ているっちゃ似ているかな?

天守台より瀬戸内海を望む

生駒氏は秀吉の死後も生き延び、関ケ原でも親子が東軍西軍に分かれることで生き残ることができた(真田氏みたいだね)。ところが御家騒動が起こり、生駒氏は出羽の国に流される。

讃岐の所領の東半分は、水戸藩から分家した松平頼重が拝領することになり、高松松平藩の初代藩主となります。この人、かの水戸光圀の実兄なのに、分家を継がされます。自分が本家を継ぐのは忠孝の道に反していると鬱屈したのが弟の水戸光圀ですが、中国の史記や儒教の教えを学び、結局本家の自分の跡継ぎに兄の子を立てることで、忠孝を貫くんですな。尊王思想を広めた水戸光圀の生きざまと、高松藩とは、そういったつながりがあるのです。くわしくは「尊王攘夷の旅2」を読んでね。

天守閣はないが、櫓も御門もみごと

さて、かつて大手門だったはずの東口を出ると、なんかさびれた区画になる。実はこの玉藻町に、私がたち一家が住んでいた。40年前だけどね。おじさんになったわけだ。昔は古びた民家などがぽつぽつ建っていて、大きな蛇が出たり、庭ではニワトリを飼ったりしていたが(本当)、いまは一角に香川県立ミュージアムが建っている。

讃岐のお勉強に「香川県民ミュージアム」へ

私は四番町小学校という学校に通っていたのだが、郷土史教育に熱心で、「源義経の屋島の戦い」とか「空海の満濃池」とか「『父帰る』の菊池寛」とか「エレキテルの平賀源内」とか「眠り猫の左甚五郎」とかを無理くり教え込まれた。その結果、こんな歴史好きの私でさえも讃岐の歴史に辟易してしまっていたが、あらためて学ぶと、面白いねえ。讃岐の国。まあ細かくはここでは紹介しません。辟易するかもしれないので。

幼少期の空海。香川県では空海自身が信仰の対象ともいえる。
讃岐の戦国領主の数はえらいことになっているね。細川氏の支配から解放されたり、三好氏の影響を受けたり、土佐の長曾我部氏の侵略を受けたりするが、最後は秀吉に屈する。
徳川幕府から生駒氏への領地の委任状のようだ
平賀源内のエレキテル。見世物と病気の治療に使われたらしいね。いかがわしいね。
讃岐うどんの美味さも全国にバレてしまったね。仕方ないね。

というわけで昼食を済ませた私は、予讃線で西へ30分、丸亀に向ったのだった。

丸亀

丸亀城といえば天守閣が残存する12城の最後の一つくらいの認識しかなかったが、すばらしかったねえ。60メートルくらいの山(亀山)自体が城塞化しているような見事な石垣。その威容に圧倒されました。

ワンダーウォール!
見事な石垣
 急こう配の坂を上ると
現存する12の天守閣のうちの一つが
瀬戸大橋もみえる

…というわけで今、丸亀のビジネスホテルでこの記事を書いている。明日は高松で仕事だが、先乗りして旅を堪能した。よかった!

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