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『グレート・ギャツビー』の「過去は変えられない問題」をアドラー心理学的に考察してみた


フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』は、失われた過去を取り戻そうとする男の話です。具体的には、別れてしまった恋人デイジーを取り戻す、それだけがために、金持ちにのし上がり、上流階級の振りをし、彼女の家の近くに豪邸を立てて、夜な夜なパーティをし、彼女がふらりと立ち寄るのを日々待ち続ける、いろんな意味でgreatな男、ジェイ・ギャツビーの話です。

ギャツビーはどうしてもデイジーと寄りを戻したい。それだけでなく、彼女の口から彼女の夫に、「昔から夫を愛していなかった、ギャツビーを愛していた」と告げさせたい。そんなまあ余計なことにまで固執するのでありました。

そんなギャツビーに、話者であり友人であるニックが諭すシーンがあります。

「僕なら彼女にそんなに多くを求めないけれどね」僕は思い切ってそう言った。「過去は繰り返せないよ
「過去は繰り返せないですって?」彼は信じられないとでもいうように叫んだ「もちろん繰り返せますとも
彼は躍起になってまわりを見回した。まるで過去が彼の家の影の中や、手を伸ばせばつかめる場所に潜んでいるかのように。
「僕はすべてを以前と同じに戻してみせます」彼は断固としてうなずいた。「彼女だっていずれわかるでしょう」
彼は過去について多くを語ったが、僕は彼が何かを、おそらくデイジーを愛するようになってからの自分自身のいくつかの観念を、取り戻したいのだと思った。デイジーを愛するようになってから、彼の人生は混乱し紛糾してしまった。けれど彼があるスタート地点に戻り、ゆっくりとしたペースで物事を進めることさえできれば、彼はなにかを見つけ出すことができるだろう…
…五年前の秋の夜のことだ、二人は木の葉の舞い落ちる道を歩いていた。そして、木立の一本もない場所へ来た。歩道が白く月の光を浴びていた。二人はそこへゆき、向き合った。一年のうち季節の変わり目に二度訪れる、あの神秘的で胸騒がしい冷やかな夜だった。家の静かな明かりが暗闇の中から何かをささやき、星星はそよぎ、ざわめいた。歩道が梯子になって、木々の上の秘密の場所まで届いているのを、ギャツビーはその目の端で、確かに見た。彼がもしひとりなら、そこに登り生命の乳首に吸い付いて、類なき驚異の乳を、飲むことすら出来た。
デイジーの白い顔が近づいてくるにつれて、彼の胸の鼓動はますます速くなった。彼は知っていた。彼がひとたびこの少女にキスをすれば、彼のいうにいわれぬ夢を彼女のはかない吐息にむすびつければ、もう彼の心は神のごとく飛び回ることはできぬ。だから彼はためらった。星星を打つ音叉の音を、しばしの間聴きながら。そして彼はキスをした。彼の唇に触れたとき、彼女は花のように開いたと彼には思えた。そして彼の夢は地上に舞い落ち、ひとつの肉体となって現れたのである。
彼の言ったことすべて、唖然とするような感傷を通じて、僕はなにかを思い出した。つかまえようのないリズム、失われた言葉の切れ端、僕が昔、どこかできいたはずのもの。一瞬あるフレーズが僕の口から形をなそうとし、僕の口はおしのように開き始め、刺激を受けて震えたひとすじの空気いじょうのものを生み出しそうになった。しかしそこから音は発せられなかった。僕がほとんど思い出そうとしていたことは、永久にほかに伝わらずに終わったのである。(光山忠良訳)


デイジーとの美しいキスの思い出をスタート地点に、ギャツビーは過去をやり直そうとしているのですね。「過去は繰り返せないよ」という当然のニックの言葉に、ギャツビーはむしろ「過去は繰り返せないですって?」とびっくりします。そしてこう叫ぶのです「もちろん繰り返せますとも」。

しかし皮肉なことに、「過去は繰り返せない」ことを、デイジー本人から告げられることになります。

ギャツビーとデイジー、その夫のトムとの修羅場の場面です。

ギャツビーは、つかつかと歩いて、彼女の側に立った。
「デイジー、もうすべてが終わったんだ」ギャツビーは熱を込めてそう言った。「もう大丈夫。あとは真実を彼に言うだけだ、あなたを愛してはいなかった、とね。それで全てが帳消しになるんだ」
彼女は茫然と彼を見ていた「なぜ・・どうして彼を愛する・・ことができる?」
「君は彼を愛してはいなかった」
彼女はためらった。なにかを訴える眼差しでジョーダンと僕に目を向けたが、それは自分が何をしたかにやっと気づいたけれど、こんな大それたことをしでかすつもりはなかったのだといいたげな目であった。しかし後の祭りである、もう遅すぎるのだ。
「私は彼を愛してはいなかった」彼女は見るからに不承不承にそう言った。
「カピオラーニでも?」トムは唐突に訊ねた。
「ええ」
下のダンスフロアから、息苦しい合奏が暑気を帯びて立ち上ってきた。
「君の靴が濡れないようにと君を抱き下ろした、パンチボウルでもかい?」かすれていたが、優しさのこもった口調だった。「・・・デイジー?」
「もうやめて」彼女の声は冷たかったが、悪意は消えうせていた。彼女はギャツビーを見た「どう、ジェイ?」彼女は言った、だがタバコに火を付けようとした手は震えていた。突然彼女はカーペットにタバコと火のついたマッチを投げ出した。
「ああ、あなたは多くを求めすぎる!」彼女はギャツビーに向かって叫んだ。「いま、あなたを愛している、それで充分じゃない?過去はどうしようもないわ」彼女は力なくすすり泣きはじめた「かつて彼を愛していた、そしてあなたのことも愛していた」
ギャツビーの目は開いて、そして閉じた。
「あなたのことも、だって?」彼は繰り返した。
「それさえ嘘さ」トムはぴしゃりとさえぎった。「彼女はあんたが生きていることも知らなかったのさ、いいか、デイジーと俺との間にはあんたには知らないものがあるのさ、そしてそれは、デイジーも俺も、絶対忘れられないことなんだ」
この言葉はぐさりとギャツビーの身体に食い込んだようだった。(光山忠良訳)

どうですか、手痛い仕打ちですね。「あなたのことも愛していた」なんておまけ的に言われて、過去を過度に美化していたギャツビーはぐさりと胸を突かれるわけです。
そしてそう、「過去はどうしようもないわ」とデイジーにはっきり告げられます。

本当に、過去というのは、やっかいなものですね。過去を忘れられなくて、死んだ人だっています。
私も、どうしようもなく過去にこだわったりする人間ですから、過去が変えられないといわれると、辛くなってしまいます。

ところが、最近読んだのですが、岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』によると、「過去は変えられる」のだそうです。

先ほど、過去は変えられなくても、未来は変えられると書いたばかりだが、本当は過去すら変えることは可能である。なぜなら、過去も意味づけられているからである。もちろん、過去が変わるというのは、一つには過去のことを忘れてしまうということもあるが、無原則に忘れるというよりも、忘れることが、ある目的に適うならばそれだけを忘れ、反対に、思い出すことが目的に適うならば、思い出すのである。(中略)なぜ変わるかといえば、過去のことを思い出す人の『今』が変わったからである。(46頁)

どうですか。わたしにはすっと胸に降りてきましたね。大事なのは「今」。人間は今の視点から過去を意味づけている。だから、まあ簡単にいえば、今の恋愛が幸せで、「そのためにあんな失恋があったんだな」と思えれば、おそらく過去は消え去るか、いい思い出にすらなるでしょう。

ギャツビーは何を間違えたんでしょう。たぶん、「デイジーを失ったのは自分が貧乏だったからだ」とか、そういった過去への固執にあるのでしょうね。過去のデイジーを美化しすぎたのかもしれません。

ありきたりなことを言いますが、ギャツビーくらいの力量があれば、もっと素敵な、はっきり言って頭の賢い女性と、今を幸せに生きることができたと思うのですね。デイジーってやっぱり、ギャツビーの過大評価ではないですか。美人だけど頭は弱いし、薄情だし。

とはいえ、どうしても忘れられない過去があるというのも一つの真実でしょうね。だから無数のラブソングがある。

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