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【治承・寿永の乱 vol.39】 富士川の戦いのその後

1つのターニングポイントだった富士川の戦い

富士川の戦いは平家本軍と甲斐源氏との戦いでしたが、それは源氏方のほぼ不戦勝というあまりにもあっけない結果となりました。

しかし、この戦いのあっけなさがかえって、この後の治承じしょう寿永じゅえいの乱の趨勢に大きな影響を及ぼし、一つのターニングポイントだったと言っても良いくらいの重要な意味を持つものとなりました。

なぜなら、この戦を境にこれまで平家優勢という情勢が明確に崩れ始めて、東国に限らず様々な地域で反乱が勃発、治承・寿永の乱はますますその混迷の度合を深めていったからです。


富士川の戦い後の動き

吾妻鏡あずまかがみ』ではこの富士川の戦いが終わったのち、頼朝が武田信義たけだのぶよしを駿河守護として駿河国(静岡県東部・中部)に置き、安田義定やすだよしさだを遠江守護に任じて遠江国(静岡県西部)へ向かわせたと記しています(治承4年10月21日条)。

しかし、この記述についても、敗走する平家本軍を甲斐源氏が追撃して駿河・遠江の両国まで制圧してしまったのを頼朝があたかも指示した形に取り繕ったものと思われます(守護の設置はもう少し後のことになると思われます)。

このように甲斐源氏軍が駿河・遠江まで進撃したことは鎌倉源氏軍とは別系統の指揮で動いていた表れと見ることができます。

この頃の鎌倉源氏軍(頼朝方)の者たちは軍勢を西へ進めることに消極的で、まずは自分たちの本拠地の保全を優先していた節が多分に見受けられるからです。

これは次節でお話いたしますが、この頃の関東はまだ完全に頼朝の影響下に入っていたわけではなく、とりわけ北関東地域(常陸ひたち下野しもつけ上野こうずけ)ではまだ敵対している勢力や動向を明らかにしていない勢力が多数ありました。つまり、西へ平家を追うよりも先に後顧の憂いを断たなければ頼朝方も動きづらかったのです。

その反面、甲斐源氏の駿河・遠江国進出は頼朝方に好都合でした。

上方の平家と関東の頼朝の間に甲斐源氏がいることによって、駿河・遠江両国が緩衝地帯となって平家の脅威に直接さらされることがなくなり、頼朝方は関東の掌握に専念できるからです。


頼朝、東国追討使の追撃をせず

治承じしょう4年(1180年)10月21日(『吾妻鏡あずまかがみ』)。

頼朝は富士川の戦いの勝利に乗じて平家軍を追撃し、そのまま西進して上洛を果たすよう全軍に命じました。ところがそんな頼朝を諌める武士がいます。三浦義澄みうらよしずみ千葉常胤ちばつねたね上総広常かずさひろつねの3名でした。彼らは、

常陸国ひたちのくに(今の茨城県の大部分)の佐竹義政さたけよしまさ、佐竹秀義ひでよしらは数百の軍勢を擁しながらいまだ帰伏しておりません。とりわけ、秀義の父である佐竹隆義たかよしは在京して平家に従っており、他の佐竹の者も(平家の権威を笠に着て)おごり高ぶっております。しからばまずこれら佐竹の者どもを討ち、その後関西へ至るのがよろしいかと思います」

と、まずは自分たちの足元を固めることを優先して後顧の憂いを取り除くことを勧めたのです。

この三浦義澄千葉常胤上総広常といえば、頼朝勢の中で宿老ともいえる人物たちで、頼朝にとって彼らの発言は決して蔑ろにできないものがありました。

また、千葉常胤にとって佐竹氏は不倶戴天の敵と言っていいほど、因縁がありました。これはまた改めてお話しようと思いますが、もともと千葉常重ちばつねしげ(常胤の父)が開拓した庄園で、伊勢神宮に寄進することで御厨みくりや(伊勢神宮・賀茂神社領である荘園)としていた相馬御厨そうまみくりやを紆余曲折あって、当時は佐竹氏にほとんど横領されてしまっていたため、佐竹氏の討伐は悲願でもありました(※)。

治承・寿永の乱はこのように在地の対立が大きく作用していて、敵方が平家方ならこちらは源家(河内源氏)方に、またその逆の場合もあり、はたまた同じ源家(河内源氏)であっても場合によっては敵対していた(例:義仲の勢力と頼朝の勢力)こともあって、単純に平家と河内源氏が争ったわけではないことがわかります。
(ちなみに佐竹氏は河内源氏義光流で甲斐源氏などと同族になります)

頼朝はこの進言を受け入れ、西進することをやめて関東に留まることにし、目下の所は佐竹氏の討伐ということで、それに向けて動き出したのです。

これについては、当初より頼朝は西進するつもりはなかったとか、甲斐源氏との無用の衝突を避けたからなど様々な見方がありますが、いずれにしてもこれ以降頼朝はしばらく関東での足場確保に専念することになります。


義経の参陣

さて、富士川の戦いに勝利した翌日、10月21日。黄瀬川宿に陣を張っていた頼朝のもとに一人の若者がやってきました。

彼は陣営の宿所の傍らにたたずみ、頼朝に会いたい旨を申し出ましたが、頼朝方の将である土肥実平どいさねひら土屋宗遠つちやむねとお岡崎義実おかざきよしざねらはこれを怪しんで取り次ごうとはしませんでした。

やがて時を移して、頼朝は自分に会いたがっている者がいることを聞き及びます。その者の年格好から奥州の九郎かと思えて、すぐにこちらへ通すよう実平に命じました。

頼朝がその若者と対面してみると、それは末弟の義経でした。二人はこれまでの話をして互いに涙を流したといいます。
頼朝はかつて先祖である源義家みなもとのよしいえ(八幡太郎、頼朝の曾祖父または高祖父)が奥州にて清原氏と戦った後三年の役(1083年~1087年)のおり、義家の弟であった源義光みなもとのよしみつ(新羅三郎)は左兵衛尉さひょうえのじょうの官職を辞して京都から奥州へ駆けつけ、ともに清原氏を滅ぼした吉例(良い先例)を引き合いに出して喜びました。

この義経は去る平治へいじ2年1月(1160年2月)はまだ産衣を着ていましたが、父・義朝が平治の乱で敗死したのちは、継父の一条長成いちじょうながなり大蔵卿おおくらきょう)のもとで育てられ、のちに出家するため鞍馬山へ入りましたが、成人する頃になるとしきりに父・義朝の敵を討ちたいと思うようになり、自ら元服して平泉ひらいずみ(今の岩手県西磐井郡平泉町)に本拠を置く藤原秀衡ふじわらのひでひらの猛勢をたのみに奥州へ向かいました。そしてそこでしばらく時を過ごすことになります。

やがて兄・頼朝が挙兵したことを聞き、義経も兄のもとへ駆けつけようとしますが、藤原秀衡は強く引き留めたために秘かに館を抜け出して奥州を立ったのです。

秀衡は義経を惜しんで留め置こうとしていたのですが、もはやその術を失ってしまい、勇士である佐藤継信つぐのぶ忠信ただのぶの兄弟を義経の供に追ってつけさせたのでした。


以上の話は『吾妻鏡』に基づく頼朝と義経の対面の話ですが、『平家物語(延慶本)』ではこの時の頼朝と義経二人の会話が記されています。

頼朝:この20余年の間、名前は聞いていたがその顔を見たことはなかったから、どのようにして会おうかと思っていたところに、まっさきに駆けつけてきてくれた。故・頭殿かみどの左馬頭さまのかみ義朝よしとも〔頼朝の父〕)の生まれ変わりかと思えて、頼もしく思う。かの項羽こうう(中国のしん末期の将)は沛公はいこう劉邦りゅうほう、中国前漢ぜんかん王朝初代皇帝〔高祖〕)を得て秦王朝を滅ぼすことができたように、今頼朝は次将を得た。(これで)どうして平家を誅伐して亡き父の本意を遂げられないことがあろうか。ところで、この度の合戦の事を聞いて(奥州の)藤原秀衡はなんと申していた?

義経:大変感じ入っておりました。(後白河院が)新大納言(藤原成親ふじわらのなりちか)以下の近臣きんしんを失い、三条宮(以仁王)や源三位入道(源頼政)が討たれた際には、『どのように兵衛佐殿ひょうえのすけどの(頼朝)は聞かれておられるだろうか・・・』と度々申しておりました。去る承安しょうあん4年(1174年)の春ごろより都を出て奥州へ向かったのですが、秀衡は(河内源氏との)昔のよしみを忘れず、なにかにつけて憐れみの情をかけてくださいました。このように参上するにあたっても、甲冑(鎧兜)、弓箭(弓矢)、馬、鞍、従者にいたるまですべて用意してくださいました。でなければどうして郎等一人をも供に連れて来れましょうか。十余年(6年ですが出典のまま)ほど彼(秀衡)のもとで受けた好意をどのようにして報い尽くそうかとも思っております。


この会話で興味深いのは、頼朝が“秀衡はなんと申していた?”と義経に聞いているところかと思います。

当時、奥州藤原氏の動向は不透明で、平家とも協調関係にあっただけに、万が一頼朝に敵対するようなことがあっては関東が危うくなってしまう恐れがありました。さらにこの時討伐しようとしていた佐竹氏は奥州藤原氏と血縁的な繋がりがあったこともあって、頼朝は奥州藤原氏の動向をかなり意識していたようです。


ちなみに、この頼朝と義経が対面したシーンは『平家物語』のなかでも名シーンとされている部分で、とても有名な話です(聞いたことがある方も多いはず)。かの日本画家の大家である安田靫彦ゆきひこ(1884年~1978年)が『黄瀬川陣』と題した六曲一双の屏風絵を残していますが、この屏風絵には頼朝と義経の対面した様子が描かれています。
(『黄瀬川陣』は個人的にとても好きな絵です^^)

あと、旧跡も残されていまして、こちらは静岡県駿東郡すんとうぐん清水町しみずちょうにある八幡神社の境内にある「対面石」と呼ばれるもの。頼朝と義経が黄瀬川の陣で会った時両名が腰をかけたとされる石です。

画面が薄暗くてすみません!

(それにしてもこの2つの石・・・なんか・・・いかにもとってつけたような・・・。)

あ、いえ、すみませんッ!対面石です!

この対面石の信憑性はともかく、この石がある八幡神社のすぐ近くを黄瀬川きせがわが流れ、黄瀬川宿があったとされる場所にも近いので、ひょっとすると、この八幡神社は頼朝の陣所跡に建てられたものかもしれませんね。


ということでこれで富士川の戦い関連の話は終わりです。
次回からはチョット地味な話になってしまうと思いますが、関東を掌握しようと動いた頼朝の話をしていこうと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。


※・・・これまで相馬御厨をめぐって千葉氏と佐竹氏が対立していたという見方がなされ、それによって千葉氏が佐竹氏討伐を推進したとされていましたが、近年では相馬御厨の領有を主張したのは佐竹義宗ではなくて、佐竹氏と関係のない京武者の源義宗であったことが指摘されたことにより(佐々木紀一「『平家物語』中の佐竹氏記事について」『山形県立女子短期大学紀要44、2008年)、これまでの見方を改めざるを得ない、再検討を要する事柄となっています。

(参考)
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年

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