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【治承・寿永の乱 vol.26】 千葉氏の参向

頼朝勢に参加する事になった千葉氏でしたが、千葉氏の本拠地がある下総国でも平家の息のかかった勢力がありました。

こうした状況に、千葉常胤ちばつねたねの六男である胤頼たねより(のちのとう胤頼)が父に進言します。
「この国の目代は平家方の人物です。われら一族がこぞって、源家のもとへ参陣してしまったら、必ず危害を加えてくることでしょう。ならば先に目代を討ってしまった方がよろしいかと」
これを受けて、常胤は早速、胤頼と孫である小太郎成胤(加曾利成胤かそりなりたねとも)に命じて目代を襲わせました。

一方、目代もそれなりの勢力を持つ者であったため、館にて数十人の手勢でもって必至に防戦、頑強に抵抗しました。そこで成胤は自分の従者を目代の館の裏手(搦手)へ回らせて、火を放たせました。すると、火は折からの強い北風にあおられて、館はたちまち炎上。戦うどころではなくなった目代の手勢は逃げ惑い、やがて目代は胤頼によって討たれました。
こうして千葉氏は目代を倒したことで下総国府を掌握、頼朝を迎える準備を整えていきました。しかし、目代だけが下総国の親平家勢力だったわけではなく、もう一つの親平家勢力が千葉氏の前に立ちはだかりました。それが下総藤原氏の勢力です。下総藤原氏の当主は藤原親政ふじわらのちかまさという人物でした。

この親政は『吾妻鏡』によれば平忠盛の娘婿で、清盛とは義理の兄弟の関係だったといい、また、親政の姉もしくは妹が平重盛との間に資盛を生んでいることから、下総藤原氏と平家とは二重の姻戚関係で結ばれていました。
さらに、この親政の祖父・藤原親通ちかみちはかつて下総守しもうさのかみ在任中に、官物未進かんもつみしん(租税滞納)を理由に千葉氏が持っていた荘園を没収しており、千葉氏にとってはいわば不倶戴天の敵でもあったのです。

そんな親政が、粟飯原あいはら金原かなばら・原といったよしみを通じている近隣の武士たちを糾合して1000余騎の軍勢を催し、千葉庄へ向けて進軍、千葉氏討伐に動きました。なお、粟飯原・金原・原といった武士は千葉氏と同族である両総平氏であり、こうしたことからも当時の下総藤原氏の影響力が大きかったことがうかがわれます。

一方、千葉氏の軍勢は全軍でも300騎程度だったと思われ、自軍の3倍以上の軍勢を相手に苦戦は必至の状況でした。ところが、ここで千葉氏に奇跡的なできごとが起こります。
常胤の孫・小太郎成胤なりたねが親政を生け捕って、圧倒的戦力差があったはずの相手に勝利してしまったのです。
『吾妻鏡』は千葉氏がどのような方法で勝利したのか、詳しく記していません。しかし、後世に千葉氏が中心となって編まれた平家物語の異本『源平闘諍録げんぺいとうじょうろく』に、その時の戦の様子が描かれていて、奇跡的なできごとが起こったことを記しています(後述)。ともあれ、こうして千葉氏は下総国の親平家勢力をほぼ掃討した形となり、頼朝をいつでも迎え入れられる態勢を整えたのです。

そして治承4年(1180年)9月17日。ついに頼朝が下総国府に到着。
千葉氏は常胤をはじめ、胤正たねまさ師常もろつね武石胤成たけしたねなり胤盛たねもりとも)・多部田胤信たべたたねのぶ国分胤通こくぶたねみち・胤頼、そして加曾利成胤(千葉成胤)といった千葉一族総動員で頼朝を出迎え、まずは先の戦で捕らえた藤原親政を御前に引き出してお目にかけたあと、食事を用意してもてなしました。頼朝は常胤の歓待に、これからは常胤を父のように思って待遇したいと、大変満足げな様子を見せていたといいます。

また、この時、千葉常胤は頼朝に一人の若武者を紹介しました。
この若武者は源頼隆よりたか毛利もうり頼隆とも)という者で、父親は頼朝の高祖父にあたる源義家よしいえの六男(七男とも)である源義隆よしたかという武士で、平治の乱にて頼朝の父である源義朝とともに戦い、比叡山の龍華越りゅうげごえという場所であえなく命を落した、つまり頼隆は頼朝とは縁の深い河内源氏一門の者だったのです。

頼朝は一門の者と知るや、感激し、すぐに常胤よりも上座に頼隆を招いたといいます。
なお、頼隆自身は平治の乱の際、まだ生後50日ばかりの赤ん坊でしたが、義朝に加担した一味の者として、永暦元年(1160年)2月、千葉常胤に伴われて下総国に流されてきたと『吾妻鏡』に記されています。それ以来、おそらく常胤のもとで養育されてきたのでしょう。つまり、常胤のもとにも、頼朝のように旗頭になれる河内源氏の血を引いた御曹司がいたということになります。このことを踏まえれば、千葉氏が下総国目代や藤原親政と戦った一連の軍事行動は、頼朝のためというより、この河内源氏の御曹司を旗頭にして近隣の諸勢力から圧迫されていた状況を打破しようと独自に挙兵したものであったとも考えられるのです。

さて、頼朝の軍勢は下総の国府に入った段階で、安房の諸豪族や三浦の一党、それに千葉一族が加わっているため、石橋山で戦った時に比べれば、数倍の軍勢になってはいましたが、それでもまだ鎌倉へ行くには心細く、その途中の武蔵国には秩父党ちちぶとうと呼ばれる大武士団や俗に武蔵七党むさししちとうと呼ばれる中小の武士団がひしめいていたため、彼らを圧倒するにはさらなる味方を募る必要がありました。とりわけ、頼朝に味方すると表明しているにもかかわらず、いまだに参上してこない上総広常の存在も、頼朝にとっては懸念材料の一つとなっていました。

そんな状況に、常胤は頼朝にある助言をします。
「ここに大幕(陣営を覆う外幕、陣幕)を百帖ばかり引き散らし、白旗を60、70ほどあちこちにお立てなされ。これを見た近隣の者、武蔵国の江戸や葛西といった者たちも皆、たちまち参上してきましょう」
そこで頼朝は、常胤の申す通りに多くの大幕を張らせて、白旗をたなびかせてみました。すると、頼朝がにわかに勢いづいたと、たちまち近隣の武士たちがわれ先に馳せ参じてきました。『平家物語』(延慶本・長門本)によれば、これで頼朝の軍勢の数は6000余騎ほどになったと記されています。

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
関幸彦・野口実 編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年
野口 実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年


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