見出し画像

【治承・寿永の乱 vol.25】 安房国での頼朝

長狭常伴の頼朝襲撃未遂事件

頼朝が安房国に上陸して間もなく事件が起こりました。
安房国長狭ながさ郡に本拠を置く長狭常伴つねともが頼朝の宿所を襲撃しようとしているという報せが入り、この報せにいち早く接した三浦義澄よしずみが三浦党の武士たちを率いて逆に長狭氏を襲撃。常伴を討ち取って難を未然に防いで事なきを得たというものです。

この事件は『吾妻鏡あずまかがみ』の治承4年9月3日条に記されているものですが、この事件の背景は単に平家寄りの長狭氏が頼朝を討とうとしたということではなく、どうやら別のところにあったようです。
この頃三浦氏は相模の三浦半島だけでなく、海を挟んだ安房国にもその勢力を伸ばしつつあって、長狭氏とは長年の対立関係にあったとされており(※1)、三浦氏はこの機に乗じて長狭氏を排除したものと考えることができるのです。

治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)は単純に源家(河内源氏義家流)と平家(伊勢平氏六波羅流)の戦いというわけではなく、それに仮託する形でその土地ごとに生じた対立関係を武力で解消していった側面を持っており、この事件もそうした側面を表したものであったと捉えることができます。

頼朝の安房国掌握

治承4年(1180年)9月4日(『吾妻鏡』)。この日、安房国の安西景益あんざいかげますが二、三人の在庁官人も連れだって頼朝の許へ参上してきました。これは先だって頼朝が御書を景益に遣わしたことによるもので、頼朝の願い通り、安房国の在庁官人をまとめて味方に馳せ参じてきたのです。

参上してきた景益は頼朝に、
「やみくもに上総広常の許へ向かうのはおやめになった方がいいです。その途中に、長狭六郎(常伴)のようにはかりごとをめぐらしている者が他にいるかもしれません。それならば上総広常にこちらへ迎えに来させた方がよいと思われます」
と、ひとまず安房国で情勢をうかがうべき旨を進言しました。この時点では上総広常や千葉常胤の反応もわからなかったため、頼朝もこの進言を受け入れて、しばらく景益の邸宅に滞在することにしました。

それではこれ以後の頼朝の動静を『吾妻鏡』に沿って述べてみます。

9月5日。頼朝一行は安房国の一の宮である洲崎明神すのさきみょうじんに参拝しました。そこで頼朝は方々に使者を遣わして招集をかけている武士たちが皆味方として馳せ参じてくれたなら田地を神田しんでんとして寄進する旨の願文を奉納したといいます。

翌9月6日。この日の晩になって、上総広常かずさひろつねの許へ遣わしていた和田義盛わだよしもりが帰ってきました。頼朝の期待は高まったと思いますが、広常からの返答は千葉常胤ちばつねたねと相談した上で参上するという消極的なものでした。

そして、9月9日。千葉常胤の許へ遣わしていた藤九郎盛長とうくろうもりなが安達あだち盛長)が帰ってきました。
盛長は頼朝に報告し、
「常胤の館の門前に来て案内を頼んだところ、いくほども待たずに客間に通されました。そこにはすでに常胤が上座に控え、傍らには常胤の子息である胤正たねまさ胤頼たねよりなどが居並んでおりました。そして、私が頼朝への加勢について詳しく述べたところ、常胤は一言も発さずに、ただ眠っているかのようでした。すると傍らにいた二人の子息が、『武衛ぶえ(頼朝)が武門を再興し、平家の狼藉を鎮める戦の最初に我らが召されたのです。これに応じるのにどうして話し合う必要がありましょうか。早く承諾する旨の返書を送るべきです』と常胤に進言したのです。常胤はついに口を開き、『心中では承諾する気持ちなのだが、源家を再興されると聞いて、感激のあまり目に涙があふれて言葉を発することができなんだ』と。その後酒宴があり、常胤はこの時、『(頼朝が)今いらっしゃる場所は要害の地でもなければ、源氏ゆかりの地でもない。速やかに相模国の鎌倉へお入りになるべきである。この常胤が一門や郎等を率いてお迎えのために参上つかまつりましょう』と申しておりました」
と、常胤が頼朝に味方することが伝えられました。これで頼朝は三浦氏、千葉氏が味方となり、残るのは上総氏だったが、千葉と相談した上で申してきている以上、味方となる公算が大きく、頼朝はようやく先々の不安から開放されようとしていたに違いありません。

そこで頼朝は常胤が進言した通り、先祖代々ゆかりの地である鎌倉へ向かうべく、いよいよ安房国から上総国へと進軍することにしましたが、その前に安房国の丸御厨まるみくりやへ立ち寄りました。
この丸御厨は頼朝の先祖である源頼義よりよしが奥州を征伐した際に、その功績として朝廷からはじめて賜った地で、頼朝の父・義朝よしともがはじめて頼朝の祖父・為義ためよしから譲り受けた所でもあり、さらには義朝が息子・頼朝が昇進するようにと祈願するために、ここを伊勢神宮へ寄進し、そのおかげか頼朝が蔵人くろうどに任命されて昇進できたという河内源氏にとっては大変ゆかりのある御厨でした。
そこで頼朝は一度見ておきたいと思ったのでしょう、この御厨の管理者である丸信俊のぶとしの案内で、御厨内を見て回り、ふと昔の事、父の事を思い出して涙を流したといいます。そして、この時頼朝は伊勢神宮へ御願を立て、自分の望みが叶うならこの安房国にもう一つ御厨を新設することを自筆で書きました。この縁起の良い御厨で、決意新たに、自分の宿願を改めて祈念したといったところだったのでしょうか。

頼朝、進軍を開始する

9月13日。頼朝はいよいよ安房国を出て、千葉常胤らがいる下総国へ向けて進軍を開始しました。その軍勢の数およそ300騎。まだこの時点では、頼みの綱の一つである上総広常の態度が曖昧でしたが、先を急ぎたい頼朝としては、希望的観測も手伝って動くことにしたのです。もちろん、その進軍の間にも上総広常に催促の使者を送り、早く態度を明確にするよう迫っていたと思われますが、この期に及んでも上総広常は、軍勢を集めている最中で、遅れて参上するとのことで、なかなか頼朝の許へ参上して来ませんでした。

注)
※1・・・上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
   川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
関幸彦・野口実 編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。