必ず一万円札をさい銭箱に奉納

 私の妻の祖母は社寺に参拝すると、必ずさい銭箱に一万円札を奉納していた。私が知りあったころは90歳くらいで、身体が歳のわりにはやや頑丈で、身長は160センチあり、女丈夫な印象はあったが、普通のおばあさんだった。
資産家でもなく、お金持ちの子供がいるわけでもなかったが、必ず1万円札を一枚、さい銭箱に奉納していた。お祓いも受けず、授与品やおみくじにもお金を使わず、たださい銭箱に一万円を入れるのを、祖母は社寺参拝の習慣にしていた。
祖母は瀬戸内海、広島県呉市にある豊島(とよしま)に明治28年に生まれ、20歳で結婚し、すぐに旧満州の吉林に渡り、義父が経営していた日清ホテルを引き継ぎ、終戦時には街一番のホテルに発展させ、菓子工場や料亭、ロシア料理店も経営し、「吉林の女傑」と呼ばれていた。
当時の満洲でも女性の経営者は珍しかったが、ミツエは偉ぶることもなく、こびることなく、ホテルの玄関に物乞いがきても追い払ったりせず、食べ物を与えていた。困っている人がいると、助けたい心が勝つのか、故郷の豊島から神社の宮司らが社殿の改装費用の寄付を頼みに来たときも、当時のお金で一万円の寄付を承諾したが、さらに「費用が足りない」との頼みにも、2400円上乗せすることを了承した。その年は地元の学校からも校舎の整備費を頼まれ3万円を寄付している。現在のお金になおすと、合わせて1億円以上になる。
祖母の長女は「現金や預金の持ち合わせがなく、お金の工面で走り回っていたので、なぜそこまでするの」とたずねたが、「故郷のみなさんのおかげがあって、いまの日清ホテルがあるのよ」力強く言っていたので、長女はそれ以上問いたださなかった。
祖母はホテル再興の夢を持って、日本に引き揚げたが、夢かなわず、しばらくして東京の阿佐ヶ谷で賄い付きの学生下宿を始めた。部屋数は10室あまりで、経営的にも儲かる仕事ではなかったが、金銭以上の財産をえた。下宿生の人たちからの信頼と尊敬であった。学生スポーツの監督でもない、ゼミの教授でもないが、学生たちの学外の”先生”となっていた。20年以上前に卒業した下宿生たちが、99歳の白寿の祝いをホテルで開いてくれるほどだった。
終戦後数年間は、満州で蓄えていたお金や財産をだまし取られる経験をしたが、「人が悪きは我が悪き、感謝を忘れず」と自分を戒め、周囲には一切愚痴などはこぼさなかった。物欲もなく、みんなが幸せになることを第一に考えていたので、無駄遣いはしなかった。高齢で仕事をしていなくても、訪ねてきてくれる人は多く、たいてい祖母にお小遣いを渡していた。そんなお金を参拝のときに使っていた、「人は裸で生まれて、何も持たずにあの世に帰っていく」とよく言っていた。
終戦直後の満洲で、祖母は駐留していたソ連軍の将校の要求を退けさせたことがあった。ホテルの3階部分をソ連軍の司令部に提供させられていたが、さらに全館接収の要求を突きつけられたとき、「あなたの国は人民のための国でしょ。このホテルには避難してきた人もたくさんいる。みんな日本の人民です。国が違っても人民です。人民を見捨てるのがあなたの国ですか」と説得して、将校は要求をあきらめた。当時はソ連軍に逆らったり、異論をとなえたら、容赦なく殺されたり、拉致され生きて帰ってこられなかった。そんなときにソ連軍将校を納得させ、要求を退けさせたのは、自分の命を考えるより、みんなのことを考える度量の広さであり、恐怖を乗り越える勇気、執着しない潔(いさぎよ)さだろう。
金銭のお金持ちにならなくても、心のお金持ちになったときに、自然に一万円札をさい銭箱に入れるのではなく、奉納できるようになるのではないだろうか。

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