「#ともにあるためのフェミニズム」のために

 2019年7月15日は重大な日になった。

 その日、ウェブサイトwezzyには「後回しにされる「差別」 トランスジェンダー を加害者扱いする「想像的逆転」に抗して」 と題された藤高和輝さんの論考が発表され、また、アジア女性資料センター主催のイベント「「女たちの21世紀」98号発行記念イベント——フェミニズムとトランス排除」(jp.ajwrc.org/3529)が開催された。これからも私がフェミニストであり続けるための——フェミニズムから学ぶと同時に、フェミニズムや女性という主体にがっかりする、このまどろっこしい関係を続けるための——大切な節目。15日はそんな日だった。

「私がここで提起したいのは、現在ツイッターを中心に行われているトランス排除的言説にも同様の「想像的逆転」のメカニズムが認められるのではないか、ということである。それらの言説においては、トランスジェンダー(とりわけトランス女性)はたとえ何もしていなくても潜在的に「性犯罪」を行う(あるいは、それを誘引する)可能性のある「危険な集団」とみなされている。権力との関係においても数的にもマイノリティであり、不安定で傷つきやすい立場に置かれているトランスジェンダーの人たちが、奇妙な逆転を経て、「暴力を行う側の主体」として表象されているのだ」

藤高和輝 「後回しにされる「差別」 トランスジェンダー を加害者扱いする「想像的逆転」に抗して」
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/wezz-y.com/archives/67425/amp%3Fusqp%3Dmq331AQOKAGYAb6V9qmjoLWTswE%253D

と、藤高さんは言う。詳しくはリンクある藤高さんのテキストをあたって欲しいのであるが、そのような不適切な解釈に対抗するために論考の中で、藤高さんは「対抗的読み(counterreading)」の可能性を示唆して、現状の差別の横行に対して抵抗を試みておられるように私には読めた。
  私はは藤高さんが参照しているバトラーの著作を読めていない。だから、その「対抗的読み(counterreading)」というのが厳密な意味でどういう読み方なのか分かっている訳ではない。それでも、不出来な私の直感を頼りに「「事実」や「中立」を装っている規範的暴力を批判的に炙り出す「対抗的読み」の実践」と藤高さんがいうところの読みを試みてみたいと思う。というのは、「「女たちの21世紀」98号発行記念イベント—フェミニズムとトランス排除」に参加した友人のあるツイッター上のつぶやきを見てしまったからである。面識もあり、少なくない時間、互いの認識を話し合った友人のために、自分ができるかもしれないある種の賭けをやってみたくなったからである。

 友人のつぶやきを触発した状況を端的に書くと、以下のようになる。
「女たちの21世紀」98号発行記念イベントの終了間際、質疑応答の時間が終わるか終わらないかのタイミングで、ある参加者が「皆さん、選挙に行きましょう」という言葉を発した。そして、その言葉に対して、会場から拍手が起った。

 これだけのシンプルな出来事であるのにも関わらず、私は一月ほどが経過した今も、この出来事をもぞもぞと読み、できもしない解釈と再解釈の繰り返しを続けている。そして、この出来事についての読みを修正してテキストを書き直すたびに、——つまり、今、この瞬間もそうであるのだが——消化不良としか言いようのないものを感じ、何度やっても克服できないその違和感を再び感じつつ、こうして書いたり消したりを繰り返している。

 実は、発言を聞いたその瞬間の私の読みには、今ほどの躊躇がなかった。つまり、発言者は「間近に迫った参議院選挙の投票に多くの人が行くのは、より良い選挙結果になるから、棄権せずに投票しよう」という意味で言葉を発し、また、会場もその提案に賛成したと、私はその状況を解釈した。実際、イベントでは特定の政党についての評価が登壇者の誰からもされなかった。だから、当の発言が特定の政党への投票を呼びかけるものでも、また、特定のイデオロギーを投票によって表明しようと促すものでもないように、私には思えた。つまり、当の発言の真意を解釈する文脈が圧倒的に欠落していた私は、当の発言をよくありがちな棄権することは市民的な義務の放棄であるというような意味として、そして、その時に起こった拍手はその主張への賛同であると、その瞬間は直感的に解釈していた。言い換えれば、私にとって、その状況は中立的な何かだった。

 私が中立的であると解釈したその場には、在日コリアンの友人が来ていた。また、そのことを私は知っていた。シスジェンダーの友人は、他の活動をしに東京に来たにも関わらず、トランスジェンダーの問題に連帯するために会場に足を運んでくれたのだろうと思って、私はイベントの休憩時間に嬉しさを隠しきれずに彼女に挨拶したのだから、彼女の存在を忘れるはずはなかった。しかし、私は発言の瞬間、発せられた言葉を「中立的に」読んだ時、私の解釈の中に彼女はいなかった。もっと正確に書くとすれば、私の解釈が解釈の要素に彼女の置かれた固有の状況はなかった。そして、彼女のツイートを読んで、その言葉に彼女は、私とは別のものを触発されたと事後的に知ったのだった。

 それから、何度か当の発言とその時の状況を自分なりに再考している。が、明確な結論は今もなお出ない。彼女のつぶやきの後、当の会場での発言を批判するつぶやきをちらほら見たには見たが、私は当の発言をした参加者を批判する気には全くなれなかったし、今も正直なところ、全くなれないのである。
 というのは、状況を読んでいるうちに、発言者は選挙権を剥奪された人で、その立場から選挙権が行使できるマジョリティに「せめて、マジョリティとしての責任を果たせ」と言っているのかもしれないという解釈が、私の心の隅でもぞもぞと膨らんでしまうからである。その場合、発言者は「皆さん、選挙に行きましょう」という言葉の前に「選挙権のある皆さんは」とでも言葉を付け足す必要はあったのかもしれないが、時間が切迫した当日の状況や、発話者の強い想いがあの発言にのせられていたかもしれないことを考えると、そういった後になってからのリクエストは要求しすぎであるようにも今の私には思えている。

 それでも、あの拍手のなかで、友人が取り残されていたとしたら、あの状況とはなんだったのだろうと、私は状況の前に立ちどまりたいと欲している。誰かが顕著な言動をとって友人を傷つけたのではないという悪者不在の状況が、なぜこんなに友人の不穏なつぶやきを触発してしまったのか、その状況に留まりたいと私はなぜか欲している。悪者を探してその人を批判したいのではない。この状況はどういった権力関係に支えれており、どうした歴史の上に成立しているのかという問いの前に立ちたいのである。換言すれば、私が感じた「中立性」に、どのような偏りがあるのか、自分自身の解釈を吟味したいのである。

 私自身の少ない読書経験を、この問いの前で思い出そうと思う。思い出したのは『在日朝鮮人』(水野直樹・文京洙著 岩波書店 2015年)(https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b226315.html)で書かれてあった、敗戦後すぐの在日コリアンを巡る状況である。私のおぼろげな記憶では、その本の数ページを「内地戸籍」を持たないものとして、彼らの選挙権が戦後、剥奪された記述が占めていたように思う。新書の記述を頼らなければならないほど、エスニックマイノリティについてのリテラシーがこんな程度しかない私には、選挙権をめぐる在日コリアン内での立場の違いや、他の日本の中のエスニックマイノリティにおける選挙権の状況や歴史について整理する能力もなければ、ましてや、それぞれの立場を評価するような能力などもない。
 ただ、ここで読み直そうとしている当の状況に関しては、私たちはこの状況が成立するための外せない前提条件から思考を始めるべきであるというのは確かなことのように思える。「私たちのうちでは、選挙権があるものとないものがいて、その中でないものの少なくとも一部は、権力による選挙権の一方的剥奪のために選挙権を奪われたままになっている」という、当たり前の前提からしか、この状況の読み直しは不可能なように私には思える。「選挙権を多くの人が行使すれば、世界は良くなるか」という問いの手前に、このような支配の歴史や、排除の構造があるはずである。当の発言や拍手をどのように解釈するとしても、選挙権を持つものと持たないものとの権力関係が、厳然としてこの日本には存在しており、さらには、持たないものの歴史や意向はまさにその権力関係によって、相対的な価値を引き下げられているという前提からしか、この状況を解釈することはできないはずである。

 話は逸れるが、少しだけトランスジェンダーとしての自分の投票についての話をしたいと思う。私は期日前投票にできるだけ行くようにしている。期日前投票できる場所がスーパーマーケットの入ったショッピングモールの中で便利だからという理由が大きいのであるが、自宅の近くで投票したくないというのもあって、そうしている。刺青があって、年齢のわりに白髪頭の私は、とにかく目立ってしまう。日頃すれ違って会釈する機会の多い隣人たちと投票所で鉢合わせするのは、とても面倒だというのは正直なところだ。私は投票所で自分の性別を確認されたことはないし、毎回、何一つトラブルなく投票用紙をもらっているのであるが、万が一トラブルになった時に偶然隣人が投票所にいるという事態をできるだけ回避したいと思って、私はいつもそうしてきた。
 それでも、私には選挙権がある。私が悩むのは、どの候補者の名前を書くかということや、投票所にどうやって行くかということであって、選挙権があるとかないとかいうことでは全くない。
 つまり、私が投票についての困難をどれだけ饒舌に語ったところで、私と在日コリアンの友人との間には、依然として横たわり続けている差異——どうやっても共有できないリアリティや、どちらの歴史にも還元できない歴史や、共約不可能なそれぞれを取り巻く権力関係——を埋めることは決してできないし、私にとっての「中立性的」な状況は、誰かにとっての抑圧的な状況である——逆もまた然りであるのだろうが——に違いない。そうした差異の隙間から、あの会場で起きた事実をエスニックマイノリティの人たちがおかれている制限された権利状態の現れとして、読むことは果たして可能なのだろうか。また、仮にそう読むことができた時に、この読みの実践は何に対する「対抗」になり得るのだろうか。

 イベントの終盤、「太平洋戦争があっても、日本のトランスジェンダーは生き続けてきた。トランスジェンダーはこれからも、何があっても生き続けていく」と三橋順子さんは壇上から力強く語っておられた。この宣言は、これから私を含めた多くのトランスジェンダーたちの希望になっていくだろう。三橋さんの言葉をあえて補うとすれば、「私たちトランスジェンダーは戦争や不況など生存の危機に直面しても、その場その場に溢れ落ちていた最低限の資源を確保できたからこそ、今まで生きてこられたし、これからもそうやって生きていく」ということだろう。

 私たちはインフラストラクチャーや権利なしには生きてはいけない。不安定な生を生きてきた私たちトランスジェンダーには、そのことがよくわかるはずだ。水や道路などの生きるための前提条件がなければ、困難を生き抜くことはできない。それと同じように、それらを誰に配分し、誰のために・何のために使うかを決める政治的な意見——政治とは選挙のような場面だけではなく、ありきたりな日常のあらゆる局面を指す言葉であるとしても——を表明する権利もまた、生存を続けるための前提条件であることは間違いがないだろう。水が独占され、あらゆる生活道路に通行税が課され、特定の誰かのためだけに道路がデザインされていたとすれば、そういった社会でマイノリティである私たちの多くは、決して生き残ることができないだろうから。

ツイッターで流れる「#ともにあるためのフェミニズム」というつぶやきは、トランス女性の生存可能性を広げるためだけのものではないはずだ。飯野由里子さんは「共に在るためのフェミニズム——クィアとのつながりに目を向けて」で、障害のある女性や非異性愛の女性が分離主義を選んだことについて、こう評価している。

「さらに重要なのは、フェミニズムの「周縁」に置かれていると感じた女性たちによる運動と理論によって、フェミニズムの知見が鍛えられ、深められてきた、ということだ」

飯野由里子 「共に在るためのフェミニズム——クィアとのつながりに目を向けて」『福音と世界』2019年1月号 28ページ
https://note.mu/horry/n/n27767e4e507f にて、全文が公開中

 周縁的な女性たちやクイアたちが「共に在る」ためには何が必要なのだろうか?それぞれの人がそれぞれの生存可能性を拡張するために、何をすればいいのだろうか?トランスジェンダーではない友人の差し伸べてくれた手を、トランスジェンダーの私たちはどう握り返すことができるのだろうか?
私は友人が政治的な領域から排除されない公共空間を望む。私は友人の選挙権が——たとえ、彼女がその権利を積極的に行使しなかったとしても——回復される世界で生きることを望む。そして、その希望が実現した世界でこの生を続けるのが、私の生存可能性をも広げる別の条件になると信じている。友人の意見が聞けない世界で生存を続けるのは、きっと、自分自身のこの生が彼女の生と依存関係を結べずに、今の生に留まり続けることをも意味するように、私には思えるから。彼女が公共空間にアクセスできることは、私が私自身を更新し続けていくための、基本的な条件だと私には思えるから。

「私たちは不安定性において、不安定性から出発して、そして不安定性に抗して戦うのである。従って、私たちが共に生きようと努力するのは、人類全体に対する愛からでも、平和への純粋な願いからでもない。私たちが共に暮らすのは選択の余地が無いからであり、また、時には選択されざる状況に憤慨することもあるが、私たちは、選択されざる社会的世界の究極的価値を肯定するために闘争することを義務付けられているのであり、肯定とは必ずしも選択ではなく、闘争とは、生の平等的価値へと必然的に取り組む仕方で自由を行使する際に、認知され、感知されるのである」

ジュディス・バトラー 佐藤嘉幸・清水知子訳 『アセンブリ』 青土社 2018年 160ページ http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3126

 と、バトラーが言うように、私は自分たちに課せられた不安定性を、それに対抗してくれている彼女の不安定性と向き合うための契機にしてみたい——このテキストでそれが成功しているか否かは私には分からないにせよ。

それが、私にとっての「#ともにあるためのフェミニズム」であり、「「女たちの21世紀」98号発行記念イベント——フェミニズムとトランス排除」と銘打たれたイベントに集まった良心の、もう一つの用い方だと思う。「#ともにあるためのフェミニズム」とは、トランスジェンダーとともにあるためのフェミニズムという理想を紡ぐ言葉であると同時に、トランスジェンダーの各々が、別の人たちとともにあるための理想を語る言語的実践であるべきだと、私はそれでも信じたいと思うし、信じるのをまだ諦めたくはないと思うのだ。私は「トランスジェンダーとともにあるためのフェミニズム」を、「トランスジェンダーとして、誰かとともにあるためのフェミニズム」に言い直すことを、ここに提起したいと思っている。特に、我が愛するトランスジェンダー当事者たちには。

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