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フジテレビ・ヤングシナリオ大賞受賞の頃のこと(後編)

  第五回フジテレビ・ヤングシナリオ大賞を受賞した『屋根の上の花火』は、トレンディ・ドラマっぽいラブコメでした。前編にも書いたように、僕はトレンディ・ドラマに憧れて脚本家を目指したので、作品がそういうものになるのはある意味当然でした。

 しかしこの作品が受賞するに足るものなのかどうかは全く自信がありませんでした。

コンクールに対するモヤモヤ感

 僕はコンクールに対して「何が評価されるのかよくわからない」というモヤモヤした感じを抱いていました。

 そのモヤモヤの原因はいくつかありますが、ひとつは「実力とは別の運で決まるような要素があるのではないか?」というものです。

 もうひとつ感じたのは「コンクールは一発勝負」ということです。
 プロの脚本家としてやっていくには、コンスタントに一定レベルの作品が書ける能力が必要です。またプロが脚本を書く作業はプロデューサーと一緒に行う共同作業で、何度も直しをして少しずつ完成に向かいます。つまり一発勝負をかけるというような種類のものではないのです。
 それに対してコンクールは、受けるネタを探して「これでどうだ!」みたいに一発勝負をかけるような感じがあります。

 またこれは自分がコンクールの審査員をやったのでわかることですが、応募作の中に技術的には達者だけど題材には目新しさのない作品があると、「これくらいプロならいくらでも書ける」と審査員は思ってしまいます。技術よりは既成のプロにはないフレッシュさや斬新さを求める傾向があるのです。

 僕は、脚本の勉強とはプロとして通用する水準のものをコンスタントに書ける技術や基礎体力的なものを身につけることだと思ってやっていました。プロの脚本家になりたいのだからそれは当然のことです。
 しかしコンクールではそういうことが評価軸になりません。というかコンクールというシステムではそういうところを評価しようがないのです。

 僕はコンクールに応募しては落ちるということを重ねながら、「野球選手になりたいのにサッカーのテストを受けさせられている」ような居心地の悪さを感じていました。

「持ち込み」にターゲットを変更

 僕は第五回のヤンシナに応募したら、コンクールは卒業しよう、と思いました。ではどうするかというと「持ち込み」です。
 一発勝負ではなく、直接プロデューサーに何作か読んでもらい、プロデューサーとやりとりする中でコンスタントに一定レベルのものが書ける実力を認めてもらい、仕事に結びつけたいと思ったのです。
 そのためには、どこに持ち込めばいいか考えなくてはなりません。

きっかけとなった新聞記事

 第五回フジテレビ・ヤングシナリオ大賞の締め切りは91年8月末日でした。その数日後、新聞の夕刊を読んでいたら文化欄にひとつの記事が目にとまりました。
 「最近、各テレビ局で深夜ドラマに力を入れている。日本テレビでも深夜ドラマの枠を設けており、ここでは若手脚本家を育成することも考えている」という内容でした。僕は「これだ」と思いました。
 深夜ドラマは制作費が少ない代わりに実験的なことができるのが特徴です。新人にチャンスが貰える可能性も高いのではないかと思ったのです。
 さっそく僕は日本テレビのその番組の担当者宛てに、自己紹介を書いた手紙と共に自分の作品を3本ほど送りました。もちろん送ったら必ず読んで貰えるという確証はありません。ダメ元くらいの気持ちです。

プロデューサーからの電話

 すると数日後に電話がありました。日本テレビのプロデューサーの西牟田知夫さんからでした。
 「作品を読みました。一度会いましょう」と言われ、僕は当時麹町にあった日本テレビに行き、西牟田さんと会いました。彼が言うには、作品を送って来る人はたまにいるけど、それを読んで連絡する気になったのは初めてだということでした。

 このとき、新しいドラマの企画書を書くことを依頼されました。その企画が通ることはありませんでしたが、西牟田さんから他の制作会社のプロデューサーを紹介され、そこでも企画書やプロットを書くようになりました。こうして「一発勝負」ではなく、プロデューサーとやりとりをしながら試行錯誤するという、自分が求めていた状態を得ることが出来たのです。

 西牟田さんとはその後プロになってから何度か仕事をさせていただきました。最初に電話をくれたこと、他のプロデューサーを紹介してくれたことなど、僕の恩人の一人です。

プロットライターの日々

 書いた企画が通るということはなかなかありませんでした。コンクール応募からプロデューサーと企画を作るというステージに進んだものの、「どんな企画が通るのだろう?」という課題に悶々とするのはやはり同じでした。しかしこのときプロデューサーと話しながら何度もプロットを直す作業をしたことは勉強になったと思います。

 そうこうするうち、また別のプロデューサーを紹介され、テレビ東京で1時間のサスペンスドラマのシリーズをやるので、そのプロットを書かないかという話が来ました。
 このドラマ枠は、すでに放送が決まっており原作もあるので、一定水準のプロットを書けば採用される確率が高いものでした。
 僕はそのプロットを書き、結果として採用されて脚本を書くことになりました。これで脚本家デビューが決まったのです。
 その採用が決まり、初めて脚本の打ち合わせをしたのが、92年の7月20日でした。日本テレビに作品を送ったのが前年の9月初めだったので、約1年弱たっていました。

初めての仕事が決まった翌朝・・・

 そして次の7月21日。朝、電話が鳴りました。出てみると、「フジテレビ第一制作の者です」という声。フジテレビ? 昨日テレ東のドラマの打ち合わせをしたのでテレ東ならわかるのですが、なぜフジテレビから? 
 それはヤングシナリオ大賞の大賞が決まったという知らせでした。

 ヤンシナに応募したのが91年8月末。受賞の知らせが92年7月21日。応募から結果の知らせが来るまでの1年弱の間に、日テレに作品を送ったところからテレ東の仕事が決まるまでの出来事がすっぽりと収まっています。

 もし僕があのとき日テレに作品を送らなかったら、ヤンシナの受賞はあったのだろうか……そのことをよく考えます。
 もちろんこの両者の間には何の因果関係もありません。しかし自分としては、作品を送り、プロデューサーとつながりを持ち、企画書で試行錯誤しながら、ついに1時間ドラマの仕事を勝ち取るということをやったからこそ、まるで「そこまでやったか。ではこのご褒美をあげよう」と言わんばかりに受賞の電話が来たような気がするのです。

 もしヤングシナリオ大賞の受賞がなかったとしても、すでに何人かのプロデューサーとのつながりができて、仕事がひとつ決まっていたので、脚本家として生活出来るようにはなったかもしれません。
 しかしヤンシナの受賞があったからこそ連ドラを書くようになり、その中から『結婚できない男』も生まれたのです。あるのとないのとでは、かなり違うキャリアを歩んでいたのではないかと思います。

 前・後編を通じて書いたのは、僕が脚本家を目指し、それを達成するまでの「ストーリー」です。
 それと平行して、毎日の地道な脚本の勉強があったのも事実です。以前『「方法論」と「STORY」』という記事を書きましたが、これが僕の場合の実例です。

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※写真は受賞作『屋根の上の花火』が掲載された月刊ドラマ92年9月号と、再掲載された20年7月号

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