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2024/05/06

【引用始め】
次のタイトルは「お化け屋敷の遊び方」とかでもいいんじゃない? どうだろ?
【引用終わり】

 前回、雄馬さんはこう言って、筆を置いていた。読んだ感想を雄馬さんに送ったが、このタイトルについては答えなかった。そしたら、そのやりとりにおいても、「どうかな?」が来た。私は、「直球すぎて、戸惑っている」と書き、その後ろに冷や汗をかいて苦笑いをしている絵文字を付けた。

 私は、雄馬さんと私で、固定化を避けている場所が違うことに、今、気付いた。ただいまより、その言語化を試みる。では、霊のみなさん、宜しくお願いいたします。
 まず、前回、雄馬さんが、固定化を避けていることを明言していたと私が記憶している記述を探し、以下に引用する。

【引用始め】
【引用終わり】

 見てきたのだが、引用しづらいと思い、まずはその報告をするべきだろうと思ったので、する。引用は、するが、前後の段落と、そしてその前後の段落とも、密接に絡まり合っていて、それが私に「引用しづらい」と思わせたのだ。そういう記述から、心理的な抵抗を横目に、“あえて”抜粋しているということを了解の上で、お読みいただきたい。

【引用始め】
翻ると、自分がほとんど呼び捨てしないのは、「固定化した関係」を望んでいない、もしくは避けてるところがあるからかもしれない。これもきっと「お化け屋敷案件」だけどさ、「三日会わざれば刮目して見よ」じゃないけど、三日待たなくたって、みんな別人だって感じるのね。他人も自分も。「昨日の自分の言ったことについてあれこれ言われてもなぁ」って感じ。もちろん、外側は三日じゃほとんど変わんないよ。でも、内側っていうかさ、そっちは全然違うんじゃないかなぁ。「じゃないかなぁ」って書いてて、「お化け屋敷にいる人」に配慮してるなぁって思ってるけど、これ、配慮できてるのかな。分からん。
【引用終わり】

 雄馬さんが最後に言い放った「分からん。」は、私の言葉だ。「分からん。」と言う人の書く文章を読んで、わかったら(私は、「わかる」は平仮名の方が馴染むので、平仮名で書いています。)、おかしいだろう。ただ、そういうこと、つまり、わかる読み方をする人もいるだろう。この場合、書き手が「分からん。」と言っている内容を、読み手は、わかっている。この読み手は、書き手に同調していない。あるいは、書き手とはべつの存在としての“自分”というものが、この読み手には、あるのだと思う。(「お化け屋敷」の話に繋がりそうな気配を感じながら、私はそれを繋げずに、私は私で私の話を続けます。)
 一方、私は、同調……しているのかな。「同調している」と書こうとしたのだろうが、私は、それ以前に、「同調」という言葉を前提にして、その「同調」とやらを、するかしないかの二択問題に集中することに、抵抗や違和感を覚えた。《「同調」もまた、“自分”ありきやんな。》である。
 「同調」が「“自分”ありき」であることを確認しよう。「同調」とは、“自分”が“自分”以外の者に、まぁ、広い意味で、“重なる”ことを表す語であろう。「同調」という語の定義に“自分”が入ってしまうほどに、「同調」は「“自分”ありき」であるということだ。少なくとも、私はそう考えている。
 私にとって、風景を堪能することは、“自分”がいなくなることだ。「ーーということは、普段は“自分”があるということですね?」と聞こえたが、そうなんだろう。だが、話には、流れというものがある。後にしていただけると、助かる。戻ろう。
 私にとって、風景を堪能することは、“自分”がいなくなることだ。これは、風景に限らない。雄馬さんが、メシの話で、おそらく本質的に同じだと思われる内容を話していたので、雄馬さんに任せよう。

【引用始め】
お化け屋敷が好きな人は好きなだけいたらいいと思うけどさ、お寿司の味はしてないかもよ、とは伝えたいかも。ぼくも味のない食事をしてた時期もあったと思うけど、もうほとんど思い出せない。今日の夕飯で納豆を目を閉じて一粒一粒噛み締めるてる自分を自覚したけど、この食べ方以外はもうやらないだろうなって感じる。レーシック手術を受けてから目が悪かったときの頃、全然思い出せないんだけど、それに近いかも。

 賢さんって美味しそうにご飯食べるよね。目を閉じてることも多い気がする。食べることを、どんな風に言葉にするのか、興味あるかも。

 思いっきり遊ぶってことはさ、もちろん食事だけではないよね。色々な楽しみ方があるとは思うけど、「お寿司の味がする」状態で楽しみたいなってぼくは思うよ。「お寿司の味になってる」って感じがより近いかもしれない。「五感になる」っていうか。あ、次のタイトル、「ビカミン5(ゴー)」ってどう? Becoming 5と、ビタミンをかけてる感じ。
【引用終わり】

 「説明になってるだろうか?」と思い、その瞬間にその思いを眺めて、「そもそも、説明することなのか?」とも思った。
 説明するのもいいだろう。私も前回はずいぶんと説明したが、なんだか、妙な疲れ方で疲れた気がした。「これはこれで、“こーゆーもの”としてありなんだろうけども。」という、そんな後味だった。同時に、「芸術のゲの字もない。」とも、思ってしまっていた。前回の執筆中からすでにそう思っていたが、楽しく読んでくださった方々もいらっしゃるであろうその手前、さすがに、その文章の中では言えなかった。だが、終わり際に、ちょっと、濁して書いた。

【引用始め】
(前略)“論理的に話す[書く]”とか、“ひたすら説明する”というのを、なんだか、とても久しぶりにやらせていただいた気分です。これからもこの書き方をたくさんするかどうかはわかりませんが、読者のみなさんの気分としては、読んでいて、どんな感じなのでしょうか。(後略)
【引用終わり】

 第二文に、億劫な気持ちが凝縮されている。前半部の「これからもこの書き方をたくさんするかどうかはわかりませんが、」は、「ちょっとならともかく、たくさんはマジ勘弁。」である。後半の「読者のみなさんの気分としては、読んでいて、どんな感じなのでしょうか。」は、「あんま好評じゃない感じだと、私も助かるな。」である。
 そして私は今、昨日に引き続き、今日も、ハタと気付いてしまった。「めっちゃ説明しとる。」である。しかし、昨日感じた「妙な疲れ方」は、特にない。午後の二時半に、敷きっぱなしの布団に横になって、充分にリラックスしてスマホをぽちぽちして書いている。昨日との違いは、わからない。自然な流れで出てきた説明だからオッケー、ということだろうか。まぁ、原因の特定には興味がなさそうだ。これは、私にかなり顕著に見られる傾向ではないかと、今思った。
 私は、書いて起こることや、生きていて起こることに興味が集中しているかもしれない。だから、すでに起こったことを、その過去における何かと結びつけて、「なるほど、こいつが原因だ!」に興味がなかったり、希薄だったりするのかもしれない……というのも、べつに嘘ではないし、それほど的外れではないだろうが、いまいちピンと来ない。もしかしたら、原因の特定に興味がない理由の特定に、興味がないのかもしれない。そしたらもう、固定化そのものに興味がない可能性がある。物書きとしては致命傷かもしれない。でも、致命傷にならない可能性もあるだろう。現に書いているのだから。
 私は、忘れるために書いてるのか? 思い出すために書いてるのか? うーん。「分からん。」

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