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並行書簡-29

  雄馬が、実に、調子がいい。「調子に乗っている」というのは冗談だが、そういう冗談をサラッと私が書けるのは、雄馬の調子がいいからだ。
 雄馬は今、地球になっている。それは、私がそう思ったからだ。「私がそう思った。」という言語化がなされる以前の“感覚”として、私はそう思った。これは、“正しい”か“正しくない”かの、二者択一で片方を選んだ結果の“正しい”ではなく、“正しい”も“正しくない”もヘッタクレもないところでの、〈正しい〉だ。無理矢理言語化して〈正しい〉などと書いているが、これは、本来なら、言語化されるものではない。「だから、あきらめろ。」と言いたくもなるし、「だから、生きろ。」とも言いたくなる。かと言って、「死ね。」とはならないのは、おもしろい。今は、生きているのだ。いずれ、死ぬ。生きている時は、生きればいい。死んだら、“死ぬ”を享受すればいい。急ぐことはない。何やったって、楽しいんだ。嬉しいんだ。なら、生きてればいい。死ぬまで生きる。死んで、死ぬことに飽きたら、生まれる。ほら、なんだか、ちょっと、「球」みたいに、なってきたんじゃないか?
 これは、私が、たらたらと、言語化を続けていたら、こうなった。「私がそう思った。」と思う以前の〈思い〉を、まさに、「たらたらと」書いていくと、結局、こうなる。私は、何度も、同じことを確認している。べつに、呆れてはいない。そういうものだからだ。鍋に、水を入れ、火にかける。毎日、それをやる。毎日、沸騰する。私は、べつに、呆れない。誰がやっても、必ずそうなるのは、当たり前で、「そういうものだからだ」。
 なんとなく、引用する。

 やっぱり、やめた。私は、引用箇所を探すべく、自分の記事の一覧を見に行って、いくつかの文章を、スクロールしながら、ざっと読んでいた。私は、自分が、なぜ、それらを読んでいるのか、わかっていなかった。自分が、何を探しているのか、わかっていなかった。何か、自分が反応するものが、あるかな?ーーそんな気持ちだったかもしれない。しかし、「そんな気持ち」が自覚されると、私は、記事を眺めるよりも、記事を眺める私を眺めてしまい、記事を眺めることに、なんというか、今ひとつ、気が入らなかった。その結果が、この段落の第一文の、「やっぱり、やめた。」である。
 引用は、これまでも、何度も、やっている。うまいこと、これまでの文章を、その時に書いている文章に組み入れることで、なんとも言えない“ハーモニー”を鳴らす手法を取ってきた。これからも、やるだろう。しかし、それだけしかやらないのは、“馬鹿の一つ覚え”ということかもしれない。
 引用“する”という「手法」を覚えたなら、引用“しない”という「手法」も、あるだろう。オモテとか、ウラとか、そんなこと、雄馬も言ってたんじゃないか?
 「そんなこと、雄馬も言ってたんじゃないか?」と私の言い方が幾分投げやりなのは、言ってても、言ってなくても、結局、同じだからだ。確かめる必要が全くない、とは言わない。確かめても、べつにいいと思う。遊び方は、自由だ。そして、確かめなくても、べつにいいと思う。やはり、遊び方は、自由だからだ。
 それでも、多くの場合、どちらかを、選ぶ。もしくは、既存の選択肢を横目に見つつ、新たな選択肢を、自分で作り出す。それを、“オリジナル”と思っている私と、「いやぁ、ちゃうっしょ。」と思っている私がいる。その両方の私を眺める私が、今、これを書かせてもらっている私だろう。一つの文に何度も「私」と書いたが、私は、二重引用符や、丸数字を、振らなかった。振る気さえ起きずに書いていることに、途中で気付いた。気付いて、“眺める”と“無視する”を同時にやった。静かな部屋で、私の親指が、スマホの画面を連打する音が、鳴っているのが、聞こえ続けている。「はええな。」とも思うし、「調子いいじゃん。」とも思う。少し、休む。

 昨日、パートナーとラーメン屋に食べに行った話を書いた。行く前に、パートナーは、私の部屋に来た。そこで、少し会話があった。雄馬のことだった。この『並行書簡』の、雄馬の書いたどこかの回を読み、それに触発されての、発言だった。彼女は、私の書いた文章が、好きで、いつも、触発されている。私の書いた文章を読むことで、彼女の中で、何かが、動き出す。あるいは、何かが、すでに動いていることに、彼女が、気付く。「彼女の中で」と書いたが、“中”でも、“外”でも、どちらでもいい。その、「どちらでもいいし、どちらでもないし、どちらでもあるんだ。」ということを、彼女は、まさに、言っている。
 「あなたと雄馬さんの出会いって……いや、“出会い”って言えないんだよね。“出会い”ってさぁ、“出会ってない”が前提じゃん? あなたちは、その前提をクリアーできてないってゆうかさぁ。」
 彼女はここで笑って、「“クリアーできてない”という意地悪にも思える表現は、もちろん冗談だよ。」というメッセージを態度だけで示し、そのまま続ける。
 「出会ってないからこそ出会えるって考えると、あなたたちは、出会うとか出会わないとか、もう、言えないんだよね。言語にしようとすると、どうしても限界がある。二元論でやりくりするから、二元論じゃない二人のやりとりをあなたに向かってとか、私が一人で読んだ後で言語化しようとしても、できない。でも、“できない”って言えてるのよね。結局、両方だし、それも違う気もするし、そうすると、また言語化の限界が来て、なんかもう、私たちが今いる次元では……ぁ、いや、“次元”とか、ホントは、あんまり言いたくないんだけど、もう、どうとも言えなくなるのよねーーってゆうフラクタルにフラクタルが続いて、とにかくすんごいフラクタルで、やっぱり、このゲームは、本当に、すごいのよ。」

【引用始め】
あんまり次元の話をすると色々な意味で嫌だと感じる人もいそうなので簡潔に言うが、これが五次元の視座であり、非二元論的な意識の源だ(なぜ五次元かは自分で考えてください)。この視座に、この意識に、自覚的に入り、またあることができれば、ぼくが今日経験したような、どうしようとなく凹むことがあっても、比較的早くリカバリーできる。いや、ハッキリ言おう。どんなにネガティブな感覚、感情、思考でも次の瞬間には分離して感謝になり、忘れてしまうことができるのだ。あぁ、やっぱり繋がった。すごいな、本当に。
【引用終わり】

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