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なぜ土曜日日曜日はお休みなのか

 休みには映画を見たり、家でのんびりしたりする。平日にたまった疲れを吐き出す大事な土曜日と日曜日。そう言えば、なんで休めるんだろう、我々は。上司はあれだけ働くように指示をするのに、土曜日と日曜日だけは絶対に手を出さない。休日に深夜アニメを見て眠くなった次の日の休日の朝、そんなことを考えていた。
 あれこれ思いを巡らしてみる。そう言えば土曜日と日曜日に共通して休みになること自体が偶然の一致なのか何なのか。でも、どうせ休むなら友だちと一緒にいろんな所へ行きたいし、だったら同日が休日のほうが良いかと思った。
 一緒ということか。なるほど。そう私は思った。思えばみんな休むのが好きだから、なら土曜日曜はせっかくだしお互いに仕事しろなんて言わずにゆっくりすればいいんじゃないか、そう言う共通了解なのかなと思ってみた。
 しかしなぜ、人間は休むのが好きなのだろうか。ただ休むのではだめなのだと思う。それはただの暇であるからだ。暇は誰も受け入れたくないが、休むのはいいと思っている。思えば我々は、「少し休憩しよう」と言う文言をよく使う。これは休みは少しでいいということの表れだ。そうだ。休むのは仕事であった。仕事があって、少し休憩したいという願望も成立するのだ。
 そう言えば仕事の後の一杯は格別だとか言っている会社員の人を見たことがある……。昔の農家をとってみても、頑張って農作物を取ることが何より喜ばしいと思いながら一生懸命仕事をする。作業をするのは成果が出るから面白いのだ。でも体は疲れて来るし、瞬間瞬間で心は飽きるから、休む必要性が出てくる。完璧な理論ではないだろうか。
 この理論で行くと、子供がなにもやる気を出さない理由も見えてくる。今の子供は口を開けば食べ物が入ってくる時代に生きているから、成果の必要性を感じないのだ。成果に重要性を感じ取れない以上やる気も起きない。
 では、人生において、子供にも共通する人間の成果は無くなってしまったのだろうか。いや、まだある。例えば有名になりたいとか、成し遂げてみたいことがあるとか、そう言った類の「欲求」だ。こういった類の欲求を満たしてやることに意味を見出せる子供は頑張る。もちろん簡単な道ではないケースもあるが、それでも、頑張ることに意味はあるはずだ。
 そう言ったことを考えるときは、自己同一性に着目すると良い。自己同一性とは、「私は(自己は)~(と同じ)である」という文章を埋めることだと思っていいと思う。例えば、私はパイロットである、と言う格好いいものもある。なぜこう言ったことを考えると良いかと言うと、人間は自分がここにいることが、他者に明確になっていることに安心感を覚えるからだ。これを「存在欲求」という。この欲求は欲求の中でも高次のものだ。私が何者かである場合、それは私がいるから何者かという表現ができるのであって、したがって私はちゃんと存在していると確認してもらえるということなのである。
 なぜそんな面倒なことを考えるのだ、と言う人もいるだろう。でも、もとをただせばこの欲求、頑張れるという特典が付いてくるのである。人は頑張っているうちは仕事もするし家事もする。頑張らなければ何もしなくて済むが、代わりに密かに近づいてくるのはみすぼらしい生活と死である。死が迫ってくるのは嫌だから、きちんと存在について考える。こうして、存在と死は対極に位置するものになった。
 恐ろしい!急いで存在を得なければ!そう思ってくれただろうか。でも、このお話のタイトルは土曜日曜の存在の理由である。まずはいっぱいコーヒーを飲んでから、ことに当たってみよう。休みと仕事のリズムを整えて、明日の平日に臨もう。
(この記事は あらかると が書きました)

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