【しをよむ086】新川和江「わたしを束ねないで」——すべての境界は人の認識で成立している。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

新川和江「わたしを束ねないで」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

以前、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」で始まる詩、田村隆一「帰途」を読んだことがあります。
この詩も同様に、言葉では表現しきれないものを言葉によって表現しようともがいているように見えました。

「言葉」は自分にとって関係のあるものを、自分との関係性に基づいて区切っていくもの。
地名はそれが顕著に現れるものかもしれません。
それまでは「都道府県名」「市町村名」レベルの理解だったものが、引っ越した後には「字名」「○丁目」、道路、駅・バス停、施設の名前……など、
自分の生活に応じて無意識のうちに細分化されていきます。

放っておけばどんどん細切れにされていく生活や言葉に
敢然と挑戦するのが、この詩です。

便利に、手軽に小分けされていく葱、絵葉書の景色、牛乳。
それから枠組みとして用意された「娘」「妻」「母」の座。
この詩が発表された1968年には、「(身体的な)性別に基づく役割意識」が今よりもずっと強かったことでしょう。
現代でもまだまだ固定観念で物事を語られるのを見聞きしますし、
おそらくは私もそうした「枠」を受け入れて、
「枠」があることにすら気付けなくなっている側の存在だと思います。

与えられた役割になじもうとして、生活の形に自分の姿形や思いを縮めて、
そんな最中にこの詩に出会う。
いま手の中にある「あらせいとうの花」や「白い葱」から
大地へ、空へ、海へ、風へ、それから詩へと視線が導かれる。

大地も空も海も風も、区切ろうと思えば区切って名前をつけることだってできるのですが、
自然を全身で感じているときには、その境界は見えず、触れません。
ただ、動物の縄張りと同じように、人の暮らしにも「区切り」があったほうが便利ということなんですよね、きっと。

それから、人間が「自分との関係性」に基づいて物事を区切り、言葉を与えていくときに
いちばん関心が高いのは、やっぱり同じ人間のことで、
一人称、二人称、三人称、立場、役割、属性、etc... と区分がなされていったのでしょう。
きっと、当初は区切るべき目的があってその必要に応じた「名前」が生まれていたはずですが、
今ではそれぞれの「名前」がもつ定義に、人間のアイデンティティが引っ張られる逆転現象が起こっているのかもしれません。

私のこれまでの人生を要約せずに——現実の出来事も思考も想像も夢の中も——書き記したとしたら、きっと、それを読むには私が実際に生きてきた年月以上の時間がかかるでしょう。
文章が私にとっていちばん身近な手段なので「書き記す」としましたが、
その他のどんな表現方法でも。
根拠はありませんが、そんな気がします。

私たちは境界をつくり、認識するようにできていて、それは生物として覆せません。
ただ、その境界は天与のものではなく、
根源には絶え間ない、果てしないものが広がっていること、
人間が作った境界だからこそ私たち人間が引き直すことができることも含めて、
暮らしやすいように境界を利用していけるといいな、と思います。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は吉野弘「祝婚歌」を読みます。

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