【しをよむ098】阪田寛夫「三年よ」——大学の三年から四年も結構違った記憶があります。

t一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

阪田寛夫「三年よ」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

小学校三年生、三学期の詩。
冒頭の

ついに三年はおわろうとしている
あとなん十日かのうんめいである

というのがまさに小学三年生の格好つけたさです。
かわいくて思わず笑っちゃいそうになりますが、本人は真剣なのです。

たぶん担任の先生から「四月からは高学年になるんだから」と言われているんでしょうね。
六時間目もあるし、あひる当番もあるし、教科も名前が変わったり新しく増えたりするし。クラブ活動……は五年生からでしたっけ。

ここで語り手が話しかけているのは「三年」という概念そのもの。
教室とか廊下とか、そういったのに染みついたもの。
自分たちを「三年生」にしていた一切のものを置いて、「四年生」を手に入れる。
子供の頃の一年間は、今の一年間よりもずっと劇的だったように思います。

たとえるなら大きなツルハシで岩を切り出していくのが子供時代で、
そこから原石を見つけ、余分を削っていくのが思春期くらい、
それを研いだり手入れをしたりして、形や輝きを磨いていくのが大人……
だったりするのかもしれません。

少し話が変わりますが、
「尊敬できる年上の人」と「尊敬できる同年代の人」と「尊敬できる年下の人」が身近にいると
日々の活動というか気持ちというかが、なんだかいい感じになる気がしていて、
創作活動を通じてそうした人たちに出会えたのはよかったな、としみじみ思っています。
「自分も通った道」「自分は通らなかったけどあの人が通った道」「いつか通りたい道」が見えてくるような感じ……?
大人になると「学年」や「受ける授業」などのわかりやすい道がなくなるので、
何かしらの道標を自分や他人の中に見つけ出すのが大事になってくるのかもしれません。

今の私にも「あとなん十日かのうんめい」のものがあるかな……と考えてみたところ、
真っ先に浮かんだのは「○歳の自分」でした。
十二月に誕生日を迎えるのです。その時にはお祝いしてくださると嬉しいです。

わからなかったことがわかるようになる、とか
できなかったことができるようになる、とか、そういった晴れがましさを
カリキュラムが組まれていない場で感じるには、自分で見つけて手を出してみるしかないんだな……と、
大人になったことのある種の寂しさをこんなところで感じてしまいました。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は島田陽子「うち 知ってんねん」を読みます。

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