見出し画像

私が生きたい社会

「豊かさ」「幸せ」についてベトナムのハノイで考える企画を公開してから。最近はそれについてを考えることが多かった。

もちろん答えは人によって違う、とおもう。でも、どこかから借りてきたような言葉じゃなくて、自分の言葉で、誰もが自分の幸せを語れることができたらきっと、それだけでみんな未来にワクワクできるんじゃないかとおもう。

そうして生きていたときに出会った、「共感資本社会を生きる」という本。


「食」で社会を変えていくポケットマルシェ・「東北食べる通信」の創刊編集長の高橋博之さんと、「お金」で社会を変えていくeumo・鎌倉投信株式会社の新井和宏さんのお二人が、お金や働き方、そして「幸せ」や「豊かさ」について語り合う本だ。

地方や海外の取材をする過程で思っていたことがこの中に言語化されていたので、もう何度も読み返している。忘れないように、ここに綴ろうとおもう。

いまの「お金」は社会を豊かにしているか?

「今の日本は、ただ消費を生み続けるための構図」だと、新井さんは話す。
さんざんおいしいお店や新しい食べ物で消費を煽っておいて、今度は「メタボになるからジムに通え」「老後は不安だからとりあえず保険は入らなければいけない。投資もしなさい」という図。人が生産したものを費やして消す「消費」のありかただ。

GDPはもはや社会の豊かさを適切に測れていない。モノ余りの時代になっても、未だモノ不足の時代に作られた尺度を当てはめている。それでもいまだにそのものさししかない。だから、個人の暮らしにおいても「いくら稼ぐか」というのが、暗黙の了解としてであって、「お金を持っている方がゆたかだ」なんて思考停止がずっと続いてしまう。(高橋さん)
GDPを成長させ続けるなんて不可能。地球は一個しかないのに関わらず、永遠に成長し続けるGDPっていうのはあり得ない。(新井さん)

ゴールがない。どこまで行ってもない。そもそも、お金の定義が間違っていないだろうか?

「ソーシャルベンチャー」って言葉の違和感。そもそも社会っていうのは社会のためにあるものであるのであって、ソーシャルベンチャーなどという名前をつけなきゃいけないのはおかしいだろうと。(中略)お金になる行為をビジネス、お金にならない行為をボランティアっていうんだよという人がいる。これがおかしい。社会のためになることがお金になって、社会のためにならないことがお金にならないほうが正しいだろう。(新井さん)

大手企業の企画職に務める友人が言っていた。「この企画、SDGsの文脈入れておいて、って仕事を振られたことがある」。そんな本質的じゃないビジネスが、最近どんどん増えているように感じる。「SDGs」や「持続可能性」が、企業にとってただの便利なマーケティングの言葉になっていないだろうか。本質的なサステナビリティを追求する会社が、利益を出せずに潰れていく社会でいいのだろうか。

多様性を奪うのは誰か?

全ては、お金を「目的」にするから狂い出す。お金って同じ色で、表情もなければ全部同じ形、要はのっぺらぼう。つまり、同質化していく。「できるだけ効率を上げてスピードを速くするためには個性は徹底的に殺したほうがいい。そうすると、多様性とは真逆になる」と、新井さん。

これは食の世界にも当てはまる。同じ形のものをたくさん作って、市場に出せるのが、いままでは一番優秀な生産者とされる。固有性、バラバラ、あるいはストーリーや想いは「ノイズ」にしかならない。のっぺらぼうな農業──食べ物は、その土地の自然環境や地域文化といった複雑な要素が有益に絡み合って生み出されてきたというのに。(高橋さん)

「こうして会社も同質化していく。違うから好きになってもらえるというのに、だ。効率を上げていくことが必須だった時代では必要かもしれないけど、いまはそうじゃない」と、新井さん。

バラバラだっていうことは、みんな何かが得意で何かが足りず、こいつの足りないところは俺に救えるな、俺の足りないこころはこいつに補ってもらえるな。それが自分が生きる意味になっていく、ということ。同じ形だったらパズルのピースにならない。(高橋さん)
みんな同じでつるつるだったら、引っかからない。みんな凸凹しているからいいわけで、なぜそれを是としないのか。(中略)100年時代になっちゃって、「あ、まだ生きなきゃいけないんだ」と、生きることが辛くなる。こんな社会で本当にいいのだろうか。(新井さん)

もう、いいのに。成長や量を求めなくても、もういいのに。

「大量に生産される洋服。運び込まれた私たちのいらない洋服のゴミで、アフリカの人々はうんざりしているわよ」と、ロンドンで泊まったお家の、ファッションショーのマネジメントをしているというママの言葉を思い出す。

私たちは、いま、あるものを「循環」させる世界を作らなければいけない。

「いま」を犠牲にしない

人生100年時代になるということばかりがニュースで騒がれ、「そのためにお金を貯めなきゃ」「投資しなきゃ」と、みんなが何十年先のことばかりを考え、"いま”にフォーカスすることを忘れてしまってはいないだろうか。

都会にいると「不自然」が普通になってしまう。効率化を追求された世界で、いつしか感性がなくなり、満員電車に「運ばれる」ような感覚で生きてる人も少なくないだろう。

これまでの近代の日本の生き方というのは、未来の成長や豊かさのために、いま、今日というこの瞬間の生をある種、犠牲にする生き方。それが正当化できたのは「いま」が貧しかったから。今日家族と過ごす時間を犠牲にし、友達と遊びに行きたい休日も犠牲にし、自分の健康も犠牲にして頑張れば、明日は今日より食えるようになった。ところが、今はもうこの瞬間の生を犠牲にする正当な理由がない。(高橋さん)

私は、面接でよく聞かれるような「10年後どうなっていると思う?」という質問が好きではない。そんな先のこと、わからないからだ。もう、予想なんてできないから、そんな不確実な時代だからこそ、「いま」を生きたい、とおもう。

もう私たちの経済は十分に豊かなのだから、今度は、自分たちの「幸せ」や「豊かさ」を考えることをしてもいいのではないだろうか。

自然と命と人間を、地方と都会を、「分断」しない

自然から離れてしまった人間は、生老病死という自分のうちなる自然からも目を背けてしまい、結果、締め切りのない人生を手段と目的を履き違えたまま生き続けることになってしまう。(高橋さん)
本当に人生を幸せにしてくれるものって、やっぱり素晴らしい人と出会うこと。(新井さん)

私が大好きなサービス、「ポケットマルシェ」では、生産者と消費者が顔が見える形でコミュニケーションをとることができ、お互いの距離を縮めたうえで旬の食材を買うことができる。

いま、日本は世界から、「安くて美味しい国」と言われてるが、そんなのはおかしい。安くて美味しいが成り立っているのは、誰かがどこかで犠牲になっているから。(高橋さん)
みんな共同体なんだという感覚を持たなければいけない。個であり一体であるという共同感覚を持たなければいけない。(新井さん)

自然との関わり、他人との関わりをもっともっと増やし、他人事を「自分ごと化」しなければいけない。知り、つながることで誰かの痛みが自分の痛みに変わる。

都会の人は消費者でしかなくて、みんな「」で生きている。でも、生産者は「線」で生きている。亡くなったじいちゃん、ばあちゃんの話をするし、先祖の話、未来の孫子の話、そして動植物、森、海、山、川などの自然の話も。だから「」なんです、あの人たち。生きる目的っていうか、誰かのために生きている人は、やっぱり強い。(高橋さん)

都会は効率よく、生きることができる。電車もバスもピッタリ来る。でも地方では(私がいたベトナムもそうだけれど)日々、想定外のことが起こる。思い通りにならないことばかりが起こる。でもそこで彼らは「しょうがない」と言って引きずらない。思いどりにならないことを楽しむ力があるのだ。

田舎でやっていることは、生活なんですよね。衣食住に時間をかけている。だから地に足がついている。生き物の原理は、自らの生活に主体的に関わること。(中略)都市住民が大半の時間を使っているのは、仕事であって生活じゃない。暮らしの主役の座から退き、観客席に座っている。生きるリアリティから遠ざかっているのは当たり前だと思います。(高橋さん)

都会にいるとどうしても、完成品ばかりに埋もれてしまい、想像力がかけてしまう。自分の手元にあるものに対して、誰のどんな想いで、ここまで来たのか、と想いを馳せることを、私たちは忘れてはならない。



最後に、高橋さんが本の最後で書かれていた、元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ氏が、日本社会に対して語った言葉を。

「幸せとはモノを買うことだと勘違いしている。幸せは人間のように命あるものからしかもらえないんだ。物は幸せにしてくれない。私はシンプルなんだよ。無駄遣いしたりいろんなモノを買い込むのは好きじゃないんだ。そのうほうが時間を残せると思うから。もっと自由だからだよ」

「なぜ自由か?」

「あまり消費しないことで大量に購入した物の支払いに追われ、必死に仕事をする必要がないからさ。」

自分を苦しめているのは、自分なのかもしれないと、おもった。

来週は、大好きなベトナムです。学んできます。

いつも見てくださっている方、どうもありがとうございます!こうして繋がれる今の時代ってすごい