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僕に踏まれた町と僕が踏まれた町(と私が少しだけ踏んだ町)

ライブを観るために、初めて神戸に行った。
東から西へ半日かけた大移動である。

旅のお供に、本を持っていく。今回は、中島らもさんの「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」にした。話の舞台が神戸だから、というめちゃくちゃ単純な理由だ。

このエッセイが書かれたのも、40年近く前のことだし、当時とは町の様子もだいぶ変わってはいるだろうな、と思う。
それでも、話の中に自分が今いる場所やさっき遊びによった場所が出てくるのは、面白い体験だった。その町の空気感を感じながら読んでいるというのが良かったのかもしれない。

神戸、というか三宮の雰囲気は、私の地元とも、今住んでいる場所とも、東京の感じとも、どれとも違う感じがした。
耳慣れない関西弁のせいかもしれないし、飲み屋街のすぐ裏には、生田神社の立派な鳥居がある、というミックス感のせいかもしれなかった。

本をカバンに入れ、元町のジャズ喫茶、三宮のライブハウス、カプセルホテル、と色んな場所で読み進めた。

私が自分の足で歩いた町と、中島らもさんが若い頃過ごした神戸の町が、ぼんやりと重なるような気がした。もちろん、当時の様子を私は知らないんだけど。

このエッセイの後半、中島らもさんが亡くなった友人のことを書いた章がある。
エッセイを読んだことがなくても、その部分だけ知っている人もいるかもしれない。

ただ、こうして生きてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年かに一回かもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。
一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミくずみたいな日々であっても生きていける。

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 中島らも

初めてこのエッセイを読んだのは、多分20代前半くらいだったと思うけど、この部分は今読んでも心にしみる。

これを書いていた時の中島らもさんは、おそらく今の私とだいたい同じくらいの年齢なんじゃないかと思う。

私は、特別誰かに羨ましいと思われるスペックもない田舎の姉ちゃんだけど、彼のいう「生きててよかった」という夜は、いくつか思い浮かべることができる。

誰かに自慢できるようなキラキラなものじゃなくても、それは例えば、お気に入りのエッセイをカバンに入れて、高架下の小さいライブハウスで好きなバンドの音楽を聴くような、そんな夜のことなんじゃないかと思う。




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