大名作『違国日記』を読んで泣いてしまったこと
以前にも書きましたが、『違国日記』というマンガ(大名作)があります。すでに完結しています。
この作品について、ある人の感想を聞いて感じたことと自分自身について考えたことを記しておきます。
■ そもそもどんなお話か
『違国日記』を読んだ人はすっ飛ばしてください。
両親を交通事故で亡くした朝(あさ、女子高校生、事故当時は中学3年生)が、それまでほとんど面識のなかった小説家の叔母:槙生(まきお、35歳)と同居生活をはじめるところから物語はスタートし、朝が高校を卒業するくらいまでが描かれます。
作品の特徴としてはこんな感じ。
・朝の母と槙生は仲が悪く、ほぼ没交渉だった
・朝は絵に書いたように落ち込んでいるわけではない
・槙生は朝に自分の価値観を押し付けたり、過干渉して朝を歪めてしまうことを恐れている
・「頑張って本当の家族になろう!」「力を合わせて悩みを解決していこうぜ!」みたいなノリのマンガではない
まあ、控えめに言って名作です。
最終巻(11巻)は何度読んだかしれません。
■ 「槙生はフリーライド的ではないか」という意見
で、違和感を感じた感想というのがこういうものです。
・槙生は、朝が15歳になるまでの子育てにおいて最も大変な時期を経験せず、心地いい地点からスタートだよね。それって子育ての良い時期だけをつまみ食いして疑似親子的な立場に収まるってことだからフリーライド的じゃない?
うーん。それは的外れ、というかちょっと読解力に疑問が生じるレベルだと思います。というのも次のように思うからです。
・朝と槙生が出会った地点は心地よくない(15歳になるまでを経験する/しないと心地いい/心地よくないは別問題)
・15歳からの3年間は「子育ての良い時期」とばかりは言えない
・槙生と朝の関係は決して擬似親子的ではない(そこを目指してもいない)
この人が言わんとすることを1ミリたりとも理解できないという訳ではないけど、その感想は無いなあと思います。
■ 自分はどうだっただろう
『違国日記』を読んで、こうした感想を聞いて、自分はどうだっただろうと思います。
というのも、私は28歳で突然15歳と10歳の子どもと家族として暮らすようになったからです。
noteでは「父親になった話」と書きましたが、形式的にはともかく実質的には父親と呼べるものではありませんでした。また、父親になりたい、ならなければなどということを考えてもいませんでした。
それは無理があります。
そうした年齢になるまでの大変な時期を体験していないと分からない、体験したからこそ今の憎らしさを我慢できる…そうした意見には何度も接しました。
それが事実かどうか、私にはわかりません。
ただ、いきなり現れた人間が取って付けたように父親になるのは、控えめに言って非常に難しい。無理があります。
ですから、父親でなくても家族でなくてもいいけど、一緒に暮らす中で困ったことがあったときなど、相談できるくらいになれたらいいかなと思っていました。
今にして思えば、それすらできたかどうか怪しいのですが。
ただ、『違国日記』11巻(最終巻)を読んで、槙生の言葉に泣いてしまいました。
その言葉を引用して終わろうと思います。
※これからマンガを読む人は、これから先を見ないほうがいいです
「いたいだけここにいていい
わたしがいやになったら二度と戻ってこなくてもいいし
何年も…
なんなら一生わたしに連絡しなくて構わない
でもいつでもここに戻ってきて暮らして構わないし
このまま一生ここにいても構わない
わたしはいつでも不機嫌だし
部屋は散らかっていて
食事のメニューはつまらないけど」
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