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中年男性を落とすな

誰かへの敬意や称賛を表すのに、別の人やグループを貶めるのはやめよう。
——こんなこと、ずっと前からわかっていたつもりだった。

自分はやらないようにしていたつもりだったし、やっていないつもりだったけど、全然そんなことなくてしっかりやってしまっていた。今回、気づくことができたけど、これまで気づかずにやっていた。あー情けない。
とはいえ、気づけてよかった。これから気をつけるべきことがわかってよかった。

おれの場合、女性やGenZを応援したい、エンカレッジしたいという思いが盲点を生みだしていた。
その気持ちを表そうとして、中年男性をかるんじる言動を取ってしまっていた。

それに気づいたのは、先日行われた大学生CSVビジネスアイデアコンテストのチャンピオンアワードの最後に、全員で集合写真を撮影していたときだ。
人数が多いことから3列に並んだのだが、「場を和ませ、みんなが笑顔で撮れるように」という気持ちから、「おれたち中年男性は後ろのどうでもいいところで」というような発言をしてしまった。
…若者を応援するのと、中年をどうでもいいかのような扱いをすることは、まったくなんの関係もない。
女性をエンカレッジするのと、男性を蔑むのも同じだ。

自分自身が含まれている「その属性」がマジョリティーだからといって、「落としていい」わけじゃない。ある状況やある場所では、そのマジョリティーがマイノリティーとなり、声を挙げられないことだってあるのだ。
これはその裏返しもあてはまる話だ。自分が含まれる属性がマイノリティーであっても「落としていい」わけじゃない。
それは「ところ変われば」という話だけではなくて、自分にとってはなんてことなマイノリティー性であっても、そのマイノリティー性ゆえに傷ついていたり悩んでいたりする人たちもいるのだ。

「状況や場面に依るところがある」という留保をつけつつも、属性を「軽く見る/られる」「軽く扱う/われる」ことには、おれはもっと慎重で自覚的でいたい。
そもそも、どんな属性であろうと「軽く見られること」を快く思う人などいないのだから。

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「属性ではなく、自分自身を落とすのは構わないでしょ。問題ないよね。」
——一般論としてはそうだと思う。

ただ、それを自分が行うかどうかは別の話だ。「自分自身」を「属性」と切り離して語ることが本当に可能なのだろうか。そして仮に可能だとしても、受け手に同じことを期待できるものだろうか。
おれの中にはまだ結論はない。ただその問いを自覚した上で発信しよう。

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