月輪観大事5

旋陀羅尼の事1

五字旋陀羅尼の最後に無分別観に住することは入我我入第三重であります。

いま訶字門より解釈します。これは一つには当家は光福寺は観音、浄蓮寺は弥陀の故に、キリクの字母の訶字より釈すること当流の習いの故です。

訶字門は大師の『吽字義』に因果不可得と釈したまふところであります。
因果不可得と言うことは、例えばいまこの体は一代遡ると親が二人、二代なら四人、三代なら八人という言うように倍々に増えていき、すぐ一億に親が達します。その親同士が出会うのに一つでも縁が欠ければ出会っていないので、今この私は存在しません。
この故に大師はまた『即身義』に「重重帝網名即身」と釈したまひ、『声字義』に本有の四曼と説き玉ふのであります。

無限の因縁の重なり、直接原因と環境などの間接縁の重なりの上にいまこの「私」がいるので、その原因をこれと特定することはできない。それは原因と環境と言う相互依存の観点からも言えるということが訶字門の一義であります。

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