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『三昧発得記』私訳1

法然上人はご往生の時に空中に極楽浄土のすがたや阿弥陀仏をご覧になっておられたが、それは口で称えるお念仏の功徳であった。(それまでは口で南無阿弥陀仏と称えるのではなくて観想念仏によって観ようとするのが修行だったからである。これは簡単に極楽に行ける道を開いてくださったので本当に有り難いことである。) 法然上人の身の回りの世話をしておられた源智上人がそれを記録され、法然上人が極楽往生された後、つまり亡くなられた後に高野山の明遍上人がそれをご覧になられとても有難いものだとうれし涙を

    • 墓閉めの法話ー無常・無我・苦の三相ー

      お墓を閉めてご遺骨を移すということは近頃多いことです。 お釈迦様は「諸法は縁に従って生じ、縁に従って滅す」(法身偈)と仰いました。 何十年何百年か前にご縁があってお墓を建てた。 その時の縁に従ってここにお建てになったわけですね。【無我】 いま縁に従って滅す。つまりお墓のお性根を抜いてお骨を移す。 お骨を移すということもまたこの度の縁に従っているわけです。【無常】 お釈迦様はだからそれを悟れと仰るわけですが、我々は普通の人間(凡夫)として情の迷いがある。切ない、苦しい。

      • 月輪観の応用ー慈悲の仏随念ー

        念仏というと南無阿弥陀仏と仏の名を唱える、称名念仏が日本では主ですが、「仏を念ずる」ということで仏の功徳、その特性を思い念じるのも広義では念仏とされます。 南伝では仏随念といって仏の功徳を念じる方が「念仏」の主たる意味になります。北伝でも観想念仏と言って、仏の姿や光や徳性を念じることがありますがこれも「念仏」です。 仏随念または観想念仏で仏の慈悲を念じます。 それは実際にはホトケのほうが私を「私が幸せでありますように。私の悩み苦しみが無くなりますように」と思ってくれている

        • 不条理な時には「祈り」

          自分がどうすることもできない不条理な事態においてこそ、「祈り」ということの大切さがわかります。 それは、他者の安穏を祈ると同時に、自分の心を安らかにします。 「私は幸せでありますように 私の悩み苦しみがなくなりますように」 「私の親しい生命が幸せでありますように 私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように」 生きとし生けるものが幸せでありますように 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように」

        『三昧発得記』私訳1

          アビダルマにおける修行の進み具合について2

          とりあえず何が正しい論理化は納得した。 ここからが長い。いわゆる「修行」が始まります。修道位というやつです。 頭でわかってもやらかしていたら自爆します。 こっからは自爆しないように「感情のコントロール」を学びます。 上座は善の心所以外の感情無くす方向になります。 考え方としては、仏教では輪廻には以下の三つの状態があって、各々の状態、世界に貴方を「繋ぎとめて」おいている煩悩があるとします。 この煩悩があるので要するに自爆するようなことをやらかしていつまでも苦しい状態に「繋ぎ

          アビダルマにおける修行の進み具合について2

          アビダルマにおける修行の進み具合について1

          独断と偏見ですごいざっくり話をします。 ネット毘曇師が出てきて『光記』と違うの『宝疏』はそうじゃないのと言うお話はご勘弁ください。 なお私は『俱舎論』使いですので『清浄道論』引かれても知りません。 まず普通の状態があります。凡夫ってやつです。 ここから仏教の色々な話を聞いて、色々順路はありますが苦しみから逃れたいな、幸せになりたいな、と思います。そうすると世俗に居て俗人でも多少智慧が生じます。 智慧が生じて考えてみると、自分で自爆するようなやらかしをしなければ少なくても自

          アビダルマにおける修行の進み具合について1

          諸大事

          小技を書き留めておく備忘録です。 ①いやなことを思い出したときに気にならなくなる方法 嫌なことがフラッシュバックしたら、その感じのまま目を閉じてしばらく目を左右になるべく早く動かすと嫌な感じが気にならなくなるか軽減します。 ②男女問わず補精の方法1 冷え性の人などに用いるといいでしょう。 尾てい骨をシャワーなどで暫く温めます。 ごく軽くトントンと尾てい骨を押すのもよいでしょう ③補精の方法2 気海のツボ(へそから指三本分程度下のあたり)を温めたり、そのあたりの内側に力を

          道の托鉢の事附けたり布施の功徳の事

          道に托鉢のお坊さんが立っているときがあります。 「得体が知れない」といいますがあれは「衣体」で、衣を見ると宗派が解るのにどうもちぐはぐでおかしいな、というのを「得体が知れない」というわけです。 でも袈裟衣で托鉢で立ってるから少しでもお金を入れてみようと思う心が生じる。 それは素晴らしいことだと思います。 私見ではそのような寄付、布施、善行というのは行う側の「心を浄める」働きがあるし、また心を浄めて貪りの心を離れるためにする側面があります。 随喜という人がしたいいことを一

          道の托鉢の事附けたり布施の功徳の事

          離檀料の事、附けたり墓終いの事。

          テレビで離檀料のことが報道されています。 離檀というのは檀家を辞めることですが、私見ではこれは跡継ぎがいない家の墓終いとリンクしています。 私見では、お寺の側は悠久の時間の中で物事を考えています。ですから先祖代々そこにお墓がある家は、そのままそこにその家のお墓があるのだと感じるのです。 また先祖代々のお付き合いがあると考えていると、そこの家のお祖父さんもその前もずっと自分のところで引導を渡したという気持ちがあります。 また墓地があれば、その墓地の管理をずっとやってきたという

          離檀料の事、附けたり墓終いの事。

          月輪観の応用2ー楽に住するー

          幸せだから楽しいのか、楽しいから幸せなのか。 鶏が先か卵が先かですが、少なくても幸せなら楽しいわけでしょうから、「楽に住する」ことが出来れば「幸せである」ことができると思われます。 いろいろなレベルの「楽」があるでしょうし、色々な方法の楽を生じて受する方法があるでしょう。以下の説は一方法です。 ①体を楽にして力を抜き、深呼吸する。 座り方、手の形など楽にしていいです。座っても寝ててもいいです。手もだらんとしてていいです。普通に結跏趺坐半跏趺坐で法界定印でもいいです。 ②

          月輪観の応用2ー楽に住するー

          月輪観大事7

          旋陀羅尼の事3 虚空のように如如としてあるがままに諸法はある。 諸法があるのですから、自分もそうだということだと前回までで申しました。 この状態と、大事3入我我入のこと三重の光の中に溶けあった状態は「ほぼ」同じです。 無相を表にすると三重、有相を表にするとこの旋陀羅尼です。 どっちにしても入って行って安住するのは「本有」「如如」、『あるがまま』です。 善悪などの二元論を遠離して、ただそのように自分と世界があるということです。しかもそれに溶け入って自分も世界も区別がない。 そ

          月輪観大事7

          月輪観大事6

          五字旋陀羅尼の事2 さきに訶字門において因果不可得と釈すること前の如しであります。 ケン(キャン)字門虚空不可得でありますが、そのような因果の無限の広がりと相互依存相互関係と言うのは人間の頭では捉えきれないものであります。 永遠の過去から今に至るまで、無限の広がりと相互依存相互関係で私がいる。 その広がりは虚空のように果てしなく、一瞬ごとの生滅は幻のようであります。 虚空のように果てしなく、幻のようであり、無限の広がりがある。 禍福は糾える縄の如し。煩悩即菩提。 このよう

          月輪観大事6

          月輪観大事5

          旋陀羅尼の事1 五字旋陀羅尼の最後に無分別観に住することは入我我入第三重であります。 いま訶字門より解釈します。これは一つには当家は光福寺は観音、浄蓮寺は弥陀の故に、キリクの字母の訶字より釈すること当流の習いの故です。 訶字門は大師の『吽字義』に因果不可得と釈したまふところであります。 因果不可得と言うことは、例えばいまこの体は一代遡ると親が二人、二代なら四人、三代なら八人という言うように倍々に増えていき、すぐ一億に親が達します。その親同士が出会うのに一つでも縁が欠けれ

          月輪観大事5

          月輪観大事4

          入我我入のこと四重 次に月輪を広げるまで常の如しです。 月輪の光の中に意識を溶かした状態から、「自分」が普通にある状態に戻ります。 この時の戻る状態は、月輪の際がない状態か月輪の際を世界いっぱいに広げている状態です。 それを保ったまま、そこから一気に地上の肉体の所まで、肉体としての心臓があるところまで自分の意識を戻します。 そのまま、普通に暮らしてください。 もし問題が起これば、自分の心臓を中心にして縮尺の違う同心円の月輪を何層にも出して、その縮尺に応じた見方で問題をた

          月輪観大事4

          月輪観大事3

          入我我入のこと三重 次に月輪を広げるまで常の如しです。 貴方の認識いっぱいまで広げます。 所謂、世界いっぱいです。宇宙の向こう側まで広げます。 さて、宇宙の向こう側、世界いっぱいまで広げましたが、実はその「世界いっぱいまで広げた認識」と「世界そのもの」の間には、皮が一枚あります。月輪の外縁です。 これを溶かして、「世界そのもの」の中に貴方がいることを知らねばなりません。 自分をその宇宙そのものに投げ入れる、投げ込む感じで、月輪の外側を溶かして、「世界そのもの」に入りま

          月輪観大事3

          月輪観大事2

          入我我入のこと二重 次に月輪を広げるまで常の如しです。 まず月輪を地球が俯瞰できるくらいまで広げます。 そうすると貴方の知識のある地球の姿を上から見下ろしている感じになります。 その地球をよく観察しましょう。 アマゾンでは木々が生い茂り動物が走り回っています。 海では荒れた場所と凪いでいる場所、海の中にはいろいろな魚や海藻が存在します。 東京や都市部ではビルが立ち並び、地方郊外では山は畑があります。 そのように多種多様な有様が展開しています。 それは同時に地球という同

          月輪観大事2