アビダルマにおける修行の進み具合について1

独断と偏見ですごいざっくり話をします。
ネット毘曇師が出てきて『光記』と違うの『宝疏』はそうじゃないのと言うお話はご勘弁ください。
なお私は『俱舎論』使いですので『清浄道論』引かれても知りません。

まず普通の状態があります。凡夫ってやつです。
ここから仏教の色々な話を聞いて、色々順路はありますが苦しみから逃れたいな、幸せになりたいな、と思います。そうすると世俗に居て俗人でも多少智慧が生じます。

智慧が生じて考えてみると、自分で自爆するようなやらかしをしなければ少なくても自業自得だと罵られることはないのではないかと考える。
そこで勉強をする(聞・思・修の聞)をすると、煩悩には二種類あると書いてある。
一つには「間違った考え方」の煩悩(所知障)
二つには「感情に突き動かされて自爆する系」の煩悩(煩悩障)

間違った考え方を治すのは、お釈迦様や高僧方のみ教えを勉強する。
戒律に込められている「これが間違った行動」ということの理念を考える。(聞・思・修)
人によっては経験則でこれをすれば自爆をすると知っていてしないことを学習してる人がいます。しかし「そもそもどうしてそれをすると自爆するのか」の理念が解ってないと対症療法してるだけになります。
だから「間違った考え方」を「正しい考え方(正見)」に書き換える、または正しい考え方を理解しないといけません。

そのため、各種の瞑想をします。アビダルマだと四諦を各々四諦ごと都合十六相として観察せよ、といいます。

自爆する(苦諦)
自爆するには原因がある(集諦)
自爆が無くなった状態、結果がある(滅諦)
自爆を無くす方法がある(道諦)

これを各々に当てはめて都合十六相としてよくよく観る。
そうすると原因と結果の関係を理解し、自業自得と言うことが解ります。
これを身に染みて、納得すると「見道位」です。ざっくりざっくり。

この場合の納得は、まず身に染みて解ることです。頭で理解しただけでは私見では見道位ではありません。
また、アビダルマでは次の瞬間に修道位という「自爆は結局自業自得なのであるから、感情、情動をどうにかしないといけない」と決心して実際に治そうとすることです。

「わかっちゃいるけどやめられない」これはアビダルマでは見道位ではないはずです。修道位に次の刹那に入るという前提が崩れるからです。

余談ですが、日本大乗はこの「わかっちゃいるけどやめられない」を認めてしまったことから色々な事態が発生してるとも思えます。

この見道位では四諦を現観して無漏智が生じているはずなので、一応「聖者」の位に入ります。
ただ「預流」と言われるように、聖者と言っても「わかっちゃいるけど全部できない」ので、「預り」、一応隅っこに入れてもらいました、くらいの状態です。

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