道の托鉢の事附けたり布施の功徳の事

道に托鉢のお坊さんが立っているときがあります。
「得体が知れない」といいますがあれは「衣体」で、衣を見ると宗派が解るのにどうもちぐはぐでおかしいな、というのを「得体が知れない」というわけです。

でも袈裟衣で托鉢で立ってるから少しでもお金を入れてみようと思う心が生じる。
それは素晴らしいことだと思います。

私見ではそのような寄付、布施、善行というのは行う側の「心を浄める」働きがあるし、また心を浄めて貪りの心を離れるためにする側面があります。

随喜という人がしたいいことを一緒に喜ぶことで嫉妬の心を離れて善の心を生じ心を浄める教えがあります。寄付や布施も同じです。良いことをして、した人の心を浄める。このような側面もあります。

しかも袈裟をかけている人をみて寄附布施をしようという気持ちを起こすのは袈裟に対する敬意もあることと思います。それは素晴らしいことです。

私見ではそのような身近な善行をおこない善行を行うためらいなどをなくして、もしもっと大きな善行ができるようになったらそのようにしてください。宗教者に対する行為だけでなく、身近な人に微笑むこと、微笑んであいさつすることなども大切です。それにより行った側の心が穏やかになります。それが心が浄まり、功徳を得たということです。

布施を受ける人自体が悪い人であった場合はどうであろうかとの問題もあります。
霊感商法やお札などの押し売りがなければ立っているだけなら放置でいいのではないでしょうか。それにあまり目くじら立てることも心が荒立つことです。
また本来、托鉢は所轄の警察署からの道路使用許可が必要です。その点、多分露店などもそうだと思います。ですからあまり問題になれば警察が来るでしょう。その点警察にお任せして、我々は放置するか多少なりとも喜捨布施して功徳を積んだ方が幸せになれそうな気がします。

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